小春は膝の横に置いたビスケット缶へ、そっと視線を落とした。
深い紺色の缶には、夕暮れの光が鈍く反射している。
遠ざかっていく革靴の音は、もう聞こえない。
代わりに、風鈴の音だけが静かに残っていた。
「あいつの故郷は昔、壊滅規模の穢れ災害に遭った。救ったのは父上だ」
朔夜は空を見上げたまま、静かに続ける。
「御神影がどんな末路を辿るかを知りながら、ずっと恩を返そうと一人で戦っていたんだ」
(死んでほしくない……九条さんは、ずっとそう願ってくださっていたのね)
朔夜も、九条も、孤独の中で役目を全うしてきた。
小春はそっと微笑み、朔夜を見上げた。
「でも……九条さん、安心していました。朔夜様が、ちゃんと生きているって」
その言葉に朔夜は静かに目を伏せた。しばらくして小さく息を漏らす。
「……そうだな」
風鈴が、ちりんと鳴る。
穏やかな沈黙が落ちた。
小春は膝の上で指先を絡め、静かに朔夜を見つめた。
夕暮れに照らされた横顔は、以前よりずっと柔らかくなっていた。
(こんな顔をするようになった)
胸の奥が、じわりと熱くなる。
すると朔夜が小春の視線に気付いた。
「どうした」
「……いえ」
小春は小さく笑った。
「朔夜様が、ここにいてくださるのが嬉しくて」
その瞬間、朔夜の目がわずかに細められる。
静かな沈黙の中、遠くでヒグラシが鳴いている。
「小春」
「はい」
朔夜は、ゆっくり身体を小春へ向けた。
「今度は俺の番だ。鈴白は守る」
小春が目を瞬かせる。
「お前が守ってきたものだからだ」
小春の呼吸が止まる。
視界がじわりと滲んだ。
「朔夜様……」
小春のまつ毛が震える。
朔夜の想いが胸の奥へ痛いほど染み込んでいく。
小春はゆっくりと朔夜の手へ自分の手を重ねた。どうしようもなく温かかった。小春はその指をきゅっと握る。
「これからも……朔夜様のために、世界一美味しい菓子を作ります」
少し震える声。
朔夜はその熱を手のひらから確かめるように目を伏せた。
やがて、もう片方の手がそっと小春の頬へ触れる。
低く穏やかな声。
「……俺の命は、お前のものだ」
小春の瞳が揺れる。
主神と職人──菓子で命を繋ぐ、二人だけの契約。
「お前の菓子が俺を生かす」
朔夜の指先が、確かめるように小春の頬をなぞる。
「だから俺は、お前のために生きる」
小春の胸がいっぱいになる。
朔夜の手がそのまま腰へ滑り、小春を引き寄せた。
ふわりと朔夜の香りに包まれる。
見上げれば、すぐそこに朔夜の唇があった。
その距離に小春は途端に頬が熱くなり、視線が落ち着かなく彷徨った。
「なんだ。今更か?」
朔夜がくすりと笑う。
小春は慌てて首を振った。
「違うんです……その……」
「なんだ」
「みんなが囃し立てるから……」
小春の視線が庭の草花へ向く。
葉陰では小さな精霊たちが、きゃあきゃあと騒いでいた。
朔夜はしばらくそれを眺めていたが、やがて静かに目を細める。
「……見られているのか」
小春は恥ずかしそうに小さく頷いた。
朔夜は一度だけ空を仰ぐ。
それから再び小春を見つめた。
「なら、黙らせてやろう」
「え……」
小春が息を飲む。
朔夜の顔がゆっくり近付いてくる。
唇が触れそうな距離で、ぴたりと止まった。
「そばにいろ」
低く甘い声。
「──ずっとだ」
小春は泣きそうな笑みを浮かべ、小さく頷いた。
「……はい」
小春が目を閉じると、精霊が静かになる。
次の瞬間。二人の唇が、そっと重なった。
夕立前の湿った風が吹き抜ける。
風鈴が澄んだ音を鳴らすと、庭の桜の枝がざあと揺れる。
季節外れの花びらが一斉に縁側へ舞い落ちた。まるで祝福するように。
小春は目を閉じたまま、そっと朔夜の背へ腕を回す。
もう、この手を離すことはない。
ー 了 ー



