低く冷たい声に、小春の肩がびくりと震えた。
振り向くと、戸口に母と妹の紗良が立っていた。
二人とも、汚れたものでも見るような目で小春を見下ろしている。
「姉様、本当に気味が悪いわ。独り言なんて。死神でも見えているの?」
紗良は春色の着物の袖で口元を隠し、くすりと笑った。
「だからお父様がおっしゃるのよ。疫病神だって」
そして小春を一周しながら、着物を見る。
「またその薄汚い着物を着ているの? 洗っても貧乏臭さが落ちなくなるわよ」
小春は何も言い返さなかった。ただ、木杓子を握る手にそっと力を込める。
母は鍋を覗き込み、鼻で笑った。
「まだそんなものを作っているの?」
そう言うと、小春の手から木杓子を乱暴に奪い取った。そして次の瞬間、鍋の中の餡を、そのまま流しへぶちまけてしまう。熱い餡がどろりと流れ落ちる。
これは、小春が何時間もかけて練り上げた餡だった。
(やっと、小豆たちが笑ってくれたのに……!)
「何をするのですかっ」
小春の口から思わず声が漏れる。
「どうせ売れない。流した方がまだマシだ!」
母は濡れた手を、まるで汚れでも触ったかのように布巾で何度も拭った。
「呪いの菓子なんて作りおって! お前さえいなければ、この店は繁盛してた!」
紗良が吹き出した。
「嫌われすぎね、姉様」
そこへ、若職人の木村が厨房へ駆け込んできた。
「あっ……その餡!」
流しへ流れていく餡を見て、顔色を変えた。
「小春さんが朝からずっと練っていた餡じゃないですか!」
母は鼻で笑う。
「どうせ売れない餡よ」
「でも、小春さんの餡は誰にも真似できません! それを──」
「だったら、お前が作り直しなさい!」
母の鋭い声に、木村は言葉を飲み込んだ。
「これからは小春の代わりに、お前が売れる餡を練るんだよ」
木村は何か言いたげに小春を見た。
「その餡だけは、誰にも作れません!」
「木村、口答えしたらクビよ」
紗良が低い声で言った。
彼は何も言えず、流しへ流れ続ける餡を見つめることしかできなかった。
「……わかりました」
母は満足そうに頷き、木杓子まで炊事場の隅へ放り投げた。
そして小春を鋭い目で見据える。
「ほら、さっさと奥へ下がりなさい。お前が厨房に立つだけで縁起が悪いんだから」
小春は唇を噛み締めた。言い返す言葉さえ出てこない。
紗良は楽しそうに小春へ歩み寄る。
「今日は、お父様から嬉しいお話があるそうよ」
その声色だけで、小春にはわかった。
自分にとって嬉しい話ではない。
「何のことなの?」
紗良は目を細めてから、小さく笑った。
「店を潰しかけた無能でも、最後くらい役に立てるみたいだから」
小春の胸が、ぎゅっと締め付けられる。
「でも、姉様。安心して」
紗良はさらに耳元へ顔を寄せた。
「姉様がいなくなれば、この店もやっとまともになるわ」
そしてこの場に合わない笑みを浮かべる。
「死神の生贄になっても、誰も困らないものね」
小春は唇を噛み締め、そのまま無言で廊下へ出てゆく。
菓子職人の源蔵とすれ違った。
昔から鈴白屋を支えてきた職人だったが、小春とは決して目を合わせない。
紗良が顔を出し、声をかける。
「源蔵さん! 例の作業、今日のうちにお願い」
「へい」
源蔵は短く答えた。
「桜の木も、忘れずにね」
紗良のその言葉に小春の足が止まる。
(桜……?)
けれど源蔵は何も言わず、小春の横を通り過ぎていった。
胸に小さなざわつきが残った。だが小春は何も聞けないまま、父の待つ居間へ向かった。
部屋へ入ると、父が腕を組んで座っていた。座卓には封の切られた書状が置かれている。
父は小春を見るなり、値踏みするように目を細める。
その視線だけで、息が詰まりそうになる。
「御神影家から見合いの話が来た」
前置きもなく父は言った。
「向こうが望んでいるのは、菓子を作れる嫁だ」
父は書状を畳み、小春を見た。
「死神の家くらいしかお前を欲しがる家はない。向こうの気が変わらんうちに嫁に出す」
その名を聞いた瞬間、小春の血の気が引いた。
御神影家──
穢れを祓う代わりに瘴気をその身に受ける一族。
人々からは『死神』と恐れられていた。
小春は息が詰まり、うまく声が出せなかった。
「……死神の家、ですか……」



