花に溺れ、香りに溶ける





 銀葉の上に置かれた香木から、細く、けれど確かな筋になって立ち上る煙。伽羅特有の、甘さの奥に苦みを秘めた複雑な香りが、鼻腔の奥をゆっくりと満たしていく。

 本来なら、この瞬間がいちばん好きだった。何も考えず、ただ香りだけに意識を委ねる時間。けれど今日は、どうしても集中しきれない。

 理由は、分かっている。


「――美寿、いい香りだね。でも、少し気が散っているんじゃない?」


 静寂を裂いたのは、涼やかな、けれど甘く痺れるような声だった。
 顔を上げれば、そこには月森(つきもり)碧斗(あおと)さまがいた。


「碧斗さま……」


 碧斗さまは、十八歳。高校生でありながら、すでに華道師範の資格を取得している、若き天才華道家だ。

 父は国宝級華道家で雅号を月森耀壱を持っている月森流華道家元の月森郁斗(ふみと)様。
 母は千曲流日本舞踊の師範にして華道の師範も持っている月森百合乃様。そんなサラブレッドの血を引く彼は、いつやってきたのか稽古場の入り口に立ち、こちらを見つめていた。


「……いつからそこに?」

「今来たところだよ。煌太さんに挨拶しようと思ったら、二人とも真剣な顔をしてたから、声をかけそびれた」


 兄は苦笑しながら立ち上がった。


「じゃあ、続きは後にしようか。碧斗くん、美寿のこと、よろしく頼むよ」

「もちろんです」


 兄がにこやかに部屋を出て行くと、稽古場には私と碧斗さまの二人だけが残された。