それは父からの……家元からの手紙だった。そしてご丁寧に印まで押されている。
私は、簪に触れる。……簪の冷たさが、指先から背筋へと伝わる。それは私の中にある佐山蓮水というもう一つの魂を呼び覚ますスイッチだった。
うん、出来る。大丈夫だ。
「……分かりました。喜んでやらせていただきます」
背筋は一本の筋金を通したかのように真っ直ぐに、膝に置かれた指先には一分の隙もない。その所作一つに、彼女が幼い頃から何万回と繰り返してきた鍛錬のすべてが詰まっているようだった。
私がそう言うと、碧斗さまが驚いたように私を見た。
「美寿、無理しなくていい」
「無理ではございません。……これは、家元より正式に許可されたこと。それに、佐山に連なる者として断る道理がございません。私は碧斗さまの婚約者という肩書きだけでこの席に臨むつもりはありません。私には佐山蓮水として、香名を授かった者としての矜持がありますので」
そう言い切った後、私は自分でも驚くほど穏やかな心で百合乃さまを見つめ返していた。
百合乃さまは、わずかに目を細める。その表情の奥に、打算でも冷笑でもない、純粋な驚きがちらりと浮かんだのを私は見逃さなかった。
まるで、磨き上げられた鏡の中に、思わぬ名工の彫り物を見つけたような――そんな眼差しだった。
百合乃さまが去った後の静寂の中で、私はようやく深く息を吐いた。
「美寿、君は……」
碧斗さまは、先ほどまで私の隣にいた婚約者とは別人のようなものを見る目で、驚きに目を見開いていた。
私はその視線を、少しだけ擽ったい思いで見つめ返した。



