彼は二人きりになると、少し声を潜めて続けた。
「母と、何か話した?」
「……はい。『碧斗の気持ちだけで、この縁談が決まったわけではない』って」
碧斗さまの表情が、一瞬だけ強張った。
「そのこと、なんだけど……」
彼は周囲に人がいないことを確認すると、私の手を取って会場の隅にある庭に面した回廊へと連れ出した。
「約束通り、ちゃんと話す……ここでなら、母にも聞かれない」
夕暮れの庭園を背に、碧斗さまは静かに語り始めた。
「パーティーで美寿に会って、僕はすぐに自分のお嫁さんは美寿しかいないと思ったんだ。でも、その時点でうちの母は環流の千夏との縁組をある程度考えていたんだ」
「千夏さんと……?」
「うん。うちと環流は、代々付き合いが深いんだ。母にとっては家柄も芸術的な感性も申し分ない相手だった。だから僕は、父に頼み込んだ。……母には内緒で、佐山家との縁談を進めてほしいって」
「それを聞き入れてくれたんですか?」
「父は、僕が本気で何かを望むのを見るのが初めてだったから、味方についてくれた……佐山流の家格や、美寿自身の才能を理由に、母を説得する形を取ってくれたんだ。僕が美寿に一目惚れしたから、なんて理由は、表向き一切出さずに」
碧斗さまは、そこで一度言葉を切った。
「千夏には、悪いことをしたと思ってる。あいつ自身にその気がなくても、うちの母は、あいつとの縁組を本気で考えていた時期があったから」
「千夏さんは、知ってるんですか? そのこと」
「多分、薄々勘づいてるとは思う。でも、あいつは僕にとって家族みたいなものだから、変な遠慮も気負いもない。……本人がいちばん、自分は僕の恋愛対象じゃないってこと、よく分かってるはずだ」
「だから母は、この縁談を『家同士の合理的な判断』だと思っている。僕の個人的な感情が絡んでいるなんて、欠片も知らない」
「……もし、知られたら?」
「分からない。母は、感情で家の判断をすることを、何より嫌う人だから。……僕がただの一目惚れで、環流との縁を蹴ったと知ったら、失望されるかもしれない」
その声には、これまで見せたことのない弱さが滲んでいた。



