追い出された白猫姫は、王太子にお猫様として溺愛される

 この日、事件が起きた。

 几帳面さんが倉庫の屋根の上のミレイユを見つけ、侍従三人がかりでの追いかけっこが始まった。
 屋根から木へ飛び移り、そこから庭へ下りて全力で走る。
 花壇を飛び越え、生け垣の中に飛び込み、一度は撒いたと思ったのに——気づけば庭の端まで追い詰められていた。
 背後は外壁。左右も塞がれ、逃げ場がない。

 三人の男が、じりじりと扇形に広がる。
 足音が近づくたび、耳の奥がきんと張った。逃げたいのに、逃げ道が見つからない。

 毛が逆立ち、尻尾がぶわっと膨らむ。

「シャーーーッ!(囲まれてしまった!どうしよう!!怖い!男の人大きい!!)」

 自分でも情けないくらい、威嚇の声が必死だった。
 けれど三人とも怯まない。猫の威嚇など慣れているのか、それとも相手がミレイユだからか、じわじわ距離だけを詰めてくる。

 そのとき、低い、落ち着いた声が聞こえた。

「何をしている」

 三人の男が、ぴたりと動きを止めた。
 ミレイユも止まる。
 空気の流れが、そこで一度すっと変わった気がした。

 声の方向を見ると、そこに一人の男が立っていた。
 年齢はミレイユと同じか、少し上。二十歳手前だろうか。
 整った顔に、深い青灰色の瞳。やや長めの黒髪が、夕暮れの風に揺れている。
 着ているのは、仕立てのよい濃紺の上衣。
 無駄のない立ち姿なのに、不思議と目を引いた。

 夕暮れの光の中でも、その顔はよくわかった。

(……あの窓の人?)

 だとすると——

 几帳面さんが、はっとしたように背筋を伸ばした。

「殿下!」

 やはり。
 この人が——王太子アドリアン・ド・ヴェルモン殿下。

『謹厳な御方』という評判から想像していた通り、近寄りがたい雰囲気はある。
 けれど今の殿下の顔にあるのは、冷たさではなかった。
 侍従たちに向けた、静かな怒りだ。
 声を荒らげるでもなく、威圧するでもない。
 ただ、それだけで誰も逆らえなくなるような節度のある怒り。

「猫を追いかけているのか」
「はい。ミレイユ様のご命令で、不吉な猫を庭から追い出すようにと」
「三人がかりで一匹の猫を囲んで、それが庭の安寧を守ることになるのか」

 几帳面さんが言葉に詰まった。
 その沈黙だけで、十分だった。

 殿下がミレイユを見る。
 ミレイユもまた、殿下を見る。
 青灰色の瞳が、まっすぐにこちらを捉えていた。
 値踏みするでもなく、面白がるでもなく、ただ静かに見ている。

(なんだろう、この人……)

 心配?
 それとも——好奇心?

 殿下がゆっくりとしゃがんだ。
 そこでようやく、目の高さが近づく。
 近くで見ると、殿下の目は思っていたより深い色をしていた。
 青でも灰でもなく、その中間。
 曇った空の色に似ているのに、不思議と冷たくはない。

「おいで」

 小さな声で、殿下が言った。

「ミャ?(え?私に……?)」

 差し出された手は大きく、きれいな手だった。
 けれど捕まえるための手ではない、とすぐにわかった。
 指先に力が入っていない。
 無理に来させるつもりのない、待つだけの手だった。

 ミレイユはためらう。
 さっきまで追いかけてきていた三人の男が見ている。
 几帳面さんも見ている。
 殿下も見ている。

 でも。

 この人なら、信用できる気がした。
「おいで」と言いながら、来なくても責めないような声。
 触れようとしているのに、少しも乱暴ではない手。
 逃げてもいい、とどこかで許してくれているような距離の取り方。

(……信じてみてもいいのかもしれない)

 そう思った瞬間、体が勝手に動いた。
 ミレイユは一歩、また一歩と近づき、殿下の手に頭をそっと押しつけた。
 こつり、と額が触れる。
 自分からこんなことをしたのに気づいたのは、触れてからだった。

 大きな手が、ゆっくりとミレイユの頭を包む。
 耳のつけ根を避けるように、やさしく撫でられる。
 乱暴に掴まれなかったことが、ただそれだけで胸にしみた。

 温かい。

 それだけで、もう少しで泣きそうになった。
 喉の奥がきゅっと詰まって、危うく変な声が出るところだった。

「この猫はしばらく、私が預かる」

 そう言い渡すと、几帳面さんが何か言おうとした。
 けれど殿下が一瞥すると、それだけで黙り込む。
 有無を言わせないのに、押しつけがましさのない視線だった。

 そのまま殿下に抱き上げられる。

(うわっ!高い!)

 突然の高度に思わず爪を出しかけたが、すぐに引っ込めた。
 殿下の腕はしっかりしていて、抱き方も意外なほど安定している。
 落とされる心配はなさそう。
 胸元に収まると、聞こえてくる心音まで落ち着いていた。

「軽いな。何日も庭にいたな。随分と痩せている」
「ミャウ(そりゃあ、魚と干したパンで生きてたからです……)」

 言い返したところで通じない。
 でも、少しだけ気が緩んだ。

 殿下に抱かれたまま、ミレイユは本棟へと連れていかれた。
 日が暮れていく庭を、人目を気にして怯えながらではなく、ただ静かに揺られながら進んでいく。
 さっきまで逃げ場のない場所だった庭が、同じ景色のはずなのに少し違って見えた。

 殿下の上衣の匂いがする。
 ほんのりとした石鹸の、清潔な香り。
 それに混じって、外気と紙のような、乾いた落ち着く匂いもした。

(……悪い人じゃない、と思う)

 根拠のない確信だった。
 でも今のミレイユには、その根拠のなさごと信じてみたかった。
 目を閉じると、撫でられたところがまだじんわり熱い。
 ミレイユは殿下の腕の中で、そっと体の力を抜いた。

 連れ込まれたのは、本棟の執務室だった。
 広い部屋には書棚がずらりと並び、大きな執務机があり、暖炉では火が穏やかに燃えている。
 窓際には細長いソファ。明かりは蜜蝋の蝋燭で、やわらかな光が部屋の隅々まで満ちていた。
 外の雨と土の匂いに慣れていた鼻には、その部屋の空気はひどく落ち着いて感じられる。
 乾いた紙の匂いと、木と、火の匂い。人の住む場所の匂いだ、とミレイユは思った。

 殿下がミレイユをそっとソファに下ろした。

「まず、体を拭かないといけないな。随分汚れている」
「ウミャ(それは否定できないです……)」

 見れば、白い毛はだいぶ薄汚れていた。
 庭の土と埃と、何日も外で暮らした証拠が、そのままこびりついている。
 令嬢としての品位がずたずただ。
 もちろん今は猫なので関係ないのだけれど、それでもちょっとへこむ。

 殿下は扉を開け、廊下に控えていた侍従へ声をかけた。

「温かい湯と、柔らかい布を持ってきてくれ。それから魚と、できれば鶏肉を少し」
「……はい」

 侍従の返事には、わずかな戸惑いが混じっていた。
 だが逆らいはしない。王太子の命令なのだから当然だ。
 それでも、猫一匹にそこまでするのか、という顔はしていた。

 殿下が戻ってきて、ソファの上のミレイユを見る。

「逃げないか」
「ニャァ(逃げません)」

 ミレイユはゆっくりまばたきをした。
 猫の体では、まばたき一つで気持ちが伝わるような気がする。
 殿下がわずかに目を細めた。

「賢い猫だ」

 その言い方が、少しだけやさしかった。

 ミレイユはソファの上で丸くなり、暖炉の火を眺めた。
 あたたかい。
 じんわりと体の芯までほどけていくようなぬくもりだった。
 何日ぶりだろう。雨をしのげて、火があって、追い払われる心配をしなくていい場所なんて。

(ここ、なかなかいいかも……)

 いや、だめだ。
 慣れてはいけない。
 ここにいるのは一時的なことで、自分は早く人間に戻って、魔女を告発して、本当のことを伝えなくてはいけないのだから。

「怖かっただろう」

 そう思っていたところへ、殿下がぽつりと言った。

「三人の男に囲まれて、追い詰められて」
「ミャ?(え?)」
「なぜ、私の手を取った?猫が人間に手を差し出されて、近寄ってくるのは珍しい。警戒するものだ。それとも、余程腹が減っていたか」

 声が少し和らいでいた。
 笑っているわけではないけれど、昼間のような張り詰めた硬さもない。

(なぜ、って……なぜだろう。信用できそうだと思ったから……と言えないし、そもそも言葉が通じないし)

 ミレイユはソファから立ち上がり、殿下のほうへ近づいた。
 毛足の長い敷物に足が沈む。こんな感触も久しぶりだ。
 殿下の前まで行って、顔を見上げる。
 青灰色の瞳が、すぐ近くにある。
 昼間の庭で見た目とほとんど変わらない。

 ただ今は、もう少しだけ、やわらかい気がした。

「ニャア」

 呼びかけてみた。特に意味はない。ただ、何か言いたかった。
 大丈夫ですとか、助かりましたとか、そういうことを。
 でも出てくるのは猫の声だけだ。

 殿下がゆっくりと手を伸ばし、ミレイユの耳の後ろを撫でた。
 指先がそっと毛を分ける。その手つきがあまりに丁寧で、肩から背中にかけてふっと力が抜ける。
 次の瞬間、喉が勝手に鳴った。

「ゴロゴロゴロゴロゴロ(えっ!?何これ???)」

 しまった、と思ったのに止まらない。
 むしろ撫でられるたび大きくなる。
 殿下の指が耳のつけ根から首筋へ移ると、気持ちよすぎて目が細くなった。猫、正直すぎる。