追い出された白猫姫は、王太子にお猫様として溺愛される

 丸一日が経ち、人間に戻ったミレイユに、殿下が切り出した。

「二のつく日のことだが」
「は、はい……本当に申し訳ありません。なんだか、とんでもなく変な体質になってしまって」
「謝罪はいらない」
「でも」
「ミレイユ」

 殿下が、ミレイユの名前を呼んだ。
 猫としてではなく、人として。
 しかも、初めてまっすぐ名前で呼ばれた気がして、ミレイユははっと顔を上げた。

「問題ない。むしろ、ちょうどよかった」
「ちょうど……?」

 殿下が少しだけ間を置く。

「ミィがいなくなってから、執務室が少し静かすぎた。あの重さが膝になくなって、妙な違和感があった」
「殿下……」
「だから——」

 殿下が真っ直ぐにミレイユを見た。

「二のつく日に猫になるなら、その日は猫として傍にいてくれ。残りの日は人間として傍にいてくれ。それで何も問題がない」

 ミレイユの目が、じわりと熱くなった。

(泣きそう……泣いてはいけない……でも……)

 猫だった時間を、なかったことにしないでくれる。
 それどころか、これから先にもちゃんと含めてくれる。
 それがたまらなく嬉しかった。

「……ありがとうございます」
「礼はいらない」
「それから、確認させてください……殿下」
「なんだ?」

 ずっと、聞くのが怖かった。
 でも、ここまで来たら聞かなければならない気がした。
 ミレイユは大きく息を吸い、意を決して尋ねる。

「猫の私と、人間の私。どっちの私が好きなんですか!?」

 雷に打たれたように固まる殿下。
 瞬きもせずに沈黙している。
 薄々気づいてはいたけれど、まさかここまで本気で悩むとは思わなかった。

「……っ、えら、……べないっ」
「もうっ!少しは迷ったふりをしてから、人間の私って言ってください!」
「迷った」
「そういう意味ではありません!」
「だが、猫の君を切り離して考える発想が、私にはない」
「切り離すとか、そういう話でもありません!」
「ミレイユ」
「なんです」
「どちらの君も、私の最愛だ」
「……ずるいです」
「そうかもしれない」
「でも」
「でも?」
「……今回は許します」

 殿下の手が伸びてきて、猫のときと同じように、まず手に触れ、それから頬へ、最後に髪を撫でた。
 今は猫ではないのに、その手つきにほっとしてしまう。
 擦り寄りたくなる。ぺろぺろではなく、今度はちゃんとキスしたくなる。
 結局、そういうことなのだろう。
 猫であろうと、人間であろうと、この人の前ではこうなってしまう。

「ミレイユ。私からも、ひとついいかな?」
「なんでしょう?」
「今後も、私だけはミィと愛称で呼ばせてほしい」

 殿下が懐から小さな箱を取り出した。

「そして、これを」
「なんですか、これ?」

 箱を開けると、中には薄いピンクのリボンが入っていた。
 見覚えのある、あの色だ。

「二のつく日のために、宮廷魔術師に作らせた。人間でも猫でも、苦しくないよう調整してある」
「ぷっ……あははっ、はは……もうっ、殿下ったら」

 ミレイユは思わず笑った。
 自分でも驚くくらい、素直に、心から笑えた。

「何がおかしいのか」
「いいえ……嬉しいんです」
「ならいい」
「はい」

 ミレイユは何度も頷いた。

 次の二が付く日。
 朝、目を覚ましたミレイユは——案の定、白猫になっていた。

(ふわふわ……)

 猫の感覚が戻ってくる。
 世界がまた大きい。シーツの織り目までよく見える。毛並みはやわらかく、尻尾は勝手にゆらゆら動く。
 そして——やっぱり殿下をぺろぺろしてしまっている。

「ミィ」
「ニャア(はい)」

 ミレイユを見る殿下の目は、昨晩と変わらず、これ以上ないほどやわらかかった。
 猫だから仕方なく向ける目ではない。ちゃんと、ミレイユへ向ける目だった。

「……好きだ」

 昨晩、人間のミレイユに向けて何度も聞いた言葉。
 でも今日は、少しだけ温度が違う気がした。
 猫の姿でも、人の姿でも、同じ熱で言ってくれているのだとわかる。

 ミレイユは笑った。
 猫なので顔ではあまり笑えないけれど、ごろごろと喉を鳴らす。
 殿下が、ほんの少し目を細めた。

「ニャァ(知ってるわ、もう。あなたが笑ったとき、どんな顔になるか)」

 殿下がミレイユを抱き上げる。

「今日は一日、おまえと過ごす」
「ニャア(嬉しい)」
「そうか」

 殿下の腕の中で、ミレイユはごろごろと鳴き続けた。
 窓の外には春の光が差し込んでいる。
 庭では庭師が花壇を整え、廊下では侍従が忙しそうに走り抜けていく。

 猫としても。人間としても。
 この人のそばが、一番温かい。

 ミレイユは目を細めた。

「ぺろ」
「今日もするのか」
「ニャア(します)」
「……まあ、いい」

 殿下の声が、少しだけ笑っていた。
 その響きを胸いっぱいに受け取りながら、ミレイユはもう一度だけ、満ち足りたように喉を鳴らした。
 春は、やわらかく続いていく。そのまま。



 ヴェルモンの宮廷では、その後しばらく、こんな話が広まっていた。
 王太子殿下は、妻であるミレイユ王太子妃を大変溺愛している、と。

 人間の日には、執務の合間に二人で本を読む。
 昼食をともにする。庭を散歩する。夜は同じ部屋で過ごす。
 王宮の者たちは、そんな二人を見て、たいそう微笑ましそうな顔をした。見るたびに、である。
 以前より殿下の表情がやわらいだ、という声まで上がるほどだった。

 そして二のつく日には——

「今日もお猫様がおいでだ!」

 宮廷じゅうが、目に見えて浮き立った。
 殿下が薄いピンクのリボンをつけた白猫を抱いて廊下を歩けば、侍女たちは壁際に整列して、きちんとお辞儀をする。

「お猫様!」
「今日もお綺麗!」
「ピンクのリボンまで完璧……!」

 王妃が「今日はミィの日ね」と言って執務室に顔を出し、白猫を膝に乗せてくつろいでいく。
 王様が廊下で白猫を見かけ、無言でしばらく撫でてから「よし」と言って立ち去るのも、すっかり日課になった。
 侍従が「本日のお猫様のご朝食」として白身魚のムースを用意するのも変わらない。

「殿下、お猫様のお世話をご自分で」
「私の特権なのだから当然だ」
「……ごもっとも」

 侍従は毎回、深く深くお辞儀した。
 もう誰も、そこに疑問は持たない。

 庭師は『お猫様専用の散歩コース』を、今年の春も丁寧に整え直した。

「毎月必ず来てくれるんだから、しっかりしておかないとな」

 そう言って、生け垣の切り込み具合まで本当に念入りに確かめているらしい。
 猫の日が近づくと、庭師のやる気まで少し上がるのだと、侍女たちは噂していた。

 そして、殿下の溺愛は、猫の日にはさらに加速した。
 どういうことかと言えば。
 人間のミレイユへの溺愛は、殿下なりの控えめな形でなされていた。
 本を見繕う。食事を共にする。散歩に誘う。静かな時間を分け合う。
 そういう積み重ねだ。

 でも、猫のミィへの溺愛は——遠慮がなかった。

「こちらへ来なさい」
「膝に乗るといい」
「今日はどこにも行くな」
「ニャア」
「そうか」

 抱き上げて、撫でて、リボンを確認して、食事を気にして、寝所に連れていき、朝には「よく眠れた」と言う。
 人間のミレイユには、まだ少し照れがある。
 でも猫のミィには、照れずに全部できる。

(結局……猫の私も人間の私も、どちらも溺愛してくれるということ)

 ミレイユは、殿下の膝の上で撫でられながら、ごろごろと喉を鳴らした。

(得したのか損したのか……まあ、どちらでもいいか)

 どちらの日も、ここにいる。
 それが一番、大切なことだ。

「ミィ」
「ニャア」
「明後日は人間に戻るな」
「ニャア」
「戻ったら……庭を歩こう。庭師が新しい花を植えたそうだ」
「ニャア(一緒に行きたいです)」
「そうか。では約束だ」

 殿下の手が、白い毛並みをそっと撫でた。
 ミレイユは目を細める。喉が、静かに鳴り続ける。
 窓の外では、五月の風が庭の花を揺らしていた。
 薄いピンクのリボンが、日の光を受けてきらりと光る。

 もう、猫のことを不吉だと言う者は、この国にはいない。
 いたとしても、王太子と王妃と王様と、ついでに宮廷じゅうのお猫様支持者たちが許さないだろう。

 白猫の令嬢と過保護な王太子は、こうして仲良く暮らしましたとさ。
 ただし月のうち三分の一ほどは、白猫としてもにゃあにゃあ暮らしましたとさ。
 人間の日も、猫の日も、どちらもたっぷり幸せに。

 めでたし、めでたし。