魔女が再び執務室を訪れた。
今度は昼間で、もちろん殿下も一緒だった。
「殿下、今日は少し、お猫様とお時間をいただけないかしら。もっと仲良くなりたくて」
魔女がミレイユへ近づく。
「ミィちゃん」
甘い声で呼ぶ。
その呼び方だけで、背中の毛が逆立ちそうだった。
ミレイユは書棚の三段目に跳び上がっている。
床にいたままでは、あの手が届いてしまう気がした。
(上に逃げる。猫の特権ね)
「あら、まあ。高いところに」
「猫は高いところが好きなんだ。下りてこなければ、しばらく待つといい」
「そうしますわ」
ソファに座り、ミレイユの姿をした魔女が待つ。
書棚の上では、猫の姿のミレイユがその様子をじっと見下ろしていた。
なんとも奇妙な光景だ、と自分でも思う。
殿下は書類仕事に戻った。
三十分が経つ。
ミレイユは書棚の上から、ずっと魔女を見ていた。下りる気はまったくない。
魔女の笑顔が、少しずつ疲れてくる。
「……下りてこないわね」
「飽きたら下りてくる。無理強いはできない」
「そうですわね」
言葉は穏やかでも、魔女の口元はもうだいぶ硬かった。
待つこと自体に慣れていないのか、それとも思い通りにならない状況が耐え難いのか。
たぶん両方だろう、とミレイユは思った。
さらに十五分が経った。
ミレイユは高みの見物を決め込みながら、魔女の様子を観察する。
笑顔はさらにこわばり、ソファの肘掛けに置いた指先へ、わずかに力が入っている。
爪が布地を押しているのまで見えた。
そのとき、殿下が書類から目を上げた。
「ミィ。こちらへ」
「ニャア(殿下が呼んでいる。さすがに行かなければ)」
ミレイユは書棚から飛び降りた。
けれど魔女の方には向かわず、まっすぐ殿下の机の方へ歩く。
机の前まで来て見上げると、殿下が手を差し出した。
ミレイユは迷わず、その手に頭をそっと押しつける。
「そうか、ここにいたかったのか」
「ニャア(そういうことにしてください)」
「机の上には乗るなと言っているが……まあ、今日は特別に」
殿下の大きな手が、ミレイユの背中をゆっくり撫でた。
ミレイユはごろごろと喉を鳴らす。
机の向こう、ソファに座る魔女がこちらを見ていた。
笑顔は保とうとしている。けれど目の奥には、剥き出しの苛立ちがあった。
「……仲良しなのですわね、殿下とお猫様は。まるで……殿下の方が懐いているみたい」
「そうかもしれない」
「今日はこれくらいにしますわ」
「では、侍従に送らせよう」
魔女が退室した。
足音が少しだけ、いつもより硬い。
扉が閉まってから、殿下がミレイユを見た。
「お前は本当に、あの方が好きではないのだな」
「ニャア(好きなわけがありません)」
「そうか」
殿下の手が、もう一度ミレイユの頭を撫でた。
「……まあ、猫の勘というのは馬鹿にできない」
それだけ言って、殿下は書類へ戻った。
けれど、その横顔は少しだけ考え込んでいるようにも見えた。
さっきのやり取りを、殿下なりに反芻しているのかもしれない。
この『二回目の惨敗』のあと、王宮には小さな変化が起きた。
魔女が無視しようとした侍女たちのことが、改めて話題になったのだ。
接見時間に来ていた侍女のひとりが、その日の夕方、侍女長にこっそり報告した。
「先日、廊下でミレイユ様とすれ違ったとき……お猫様を見て、ひどく険しい顔をなさっていて。怖かったんです」
「ふむ」
「それから、ミレイユ様がわたくしたちに普段とても無礼なお言葉を……ご本人はご機嫌のいいときは何もなさらないのですが、ご機嫌が悪いときに廊下で会うと、大変なことを仰って」
「それは以前から?」
「最初から……そうですね、初日から」
侍女長は何も言わなかった。
ただ「覚えておく」とだけ言った。
その短い返答のあと、手元の記録帳へ何かを書きつける。
見ていた侍女は少しだけ、ほっとした。
少なくとも、誰かは気づき始めている。
ミレイユではない『ミレイユ様』の違和感に。
翌週のこと。
魔女の苛立ちは、じわじわと宮廷の空気に滲み出すようになっていた。
侍女たちへの当たりが強くなった。
何かにつけて命令口調になり、少しでも気に入らないことがあると、声がひやりと冷たくなる。
婚約者という立場から真正面からは逆らえず、侍女たちが侍女長に泣きついてくることも増えたらしい。
一方で、ミレイユは——というと。
王様が『お猫様専用のお茶碗』を陶芸家に特注した。
王妃からは特製の刺繍入りクッションをもらった。
殿下にいたっては、生け垣の隙間へ安全な小道を作り、『お猫様専用の散歩コース』まで整備した。
宮廷の『お猫様』人気は、もはや手がつけられないところまで来ていた。
そんな中、魔女が三度目の来訪をした。
その日は、殿下が午前中の政務会議で不在だった。
執務室にはミレイユと侍従だけがいる。
扉をノックする音がして、魔女が入ってきた。
ミレイユはソファの上から顔を上げ、魔女を見た。
(今日は、殿下がいない)
魔女もそれをわかっている。
だからこそ来たのだろう。
「侍従、少し席を外してくれないかしら。お猫様と二人で仲良くしたいの」
侍従が一瞬、固まった。
ほんのわずかな間だったが、困惑と警戒が顔に出る。
「それは……殿下のお許しなく、お猫様と二人きりになることは、わたくしの一存では」
「私は婚約者よ」
「はい」
「婚約者のお願いも聞けないの?」
声が少し低くなった。
侍従が言葉を探すように口を閉じる。
そのとき、ミレイユはソファから降り、侍従のそばへまっすぐ歩み寄った。
侍従の靴の横へぴたりと座ると、彼は目に見えてほっとした顔になる。
「お猫様、お傍に」
その瞬間だった。
「出なくていい、侍従」
低い声が、扉の方から聞こえた。
全員が振り返る。
殿下が立っていた。
政務会議が早めに終わったのか。
それとも——侍従が何らかの形で知らせていたのか。
そこまではわからない。
けれど、来てくれた。それだけで十分だった。
「殿下……」
「執務室に猫だけを残すつもりか」
「少し、二人で仲良くなりたかっただけですわ。ご一緒に席を外してくだされば、それで」
「ミィが嫌がっている」
「嫌がって……猫が何を」
「ミィの意志を尊重する」
殿下の声は静かだった。
静かなのに、一歩も引かない。
その言い方に、魔女の笑顔がはじめてはっきりと歪んだ。
「……猫の意志を、ですって」
「そうだ」
短い沈黙が落ちる。
そのあいだ、ミレイユはじっと魔女を見ていた。
耳は少し伏せていたが、目だけは逸らさない。
「猫の意志を、婚約者である私より優先されるのですか」
「優先しているわけではない。ただ、ミィを一人にするつもりはない」
その一言に、魔女の目の奥で何かがひどく冷たく光った。
もう『優雅な令嬢』の仮面は薄い。
取り繕ってはいるが、内側の苛立ちが隠しきれていなかった。
「……わかりましたわ」
魔女が一礼して退室する。
足音は優雅さを装っていても、かすかに硬かった。
扉が閉まる。
そこでようやく、張り詰めていた空気が少し緩んだ。
「侍従、ご苦労」
「は、はい……」
侍従がほっとした顔でお辞儀をする。
殿下がミレイユを見た。
ミレイユも見上げる。
「怖かったか」
「ニャア(少しだけ)」
「そうか」
殿下がミレイユを抱き上げる。
腕の中へ収まると、さっきまで逆立ちそうだった毛が自然と落ち着いていく。
情けないくらい、体は正直だった。
その夜、侍従が殿下に追加の報告をした。
侍女たちから上がっている証言について。
廊下での無礼な言動について。
機嫌の悪いときの冷たい物言いについて。
殿下は無言で最後まで聞いた。
「……そうか」
それだけ言って、殿下は書類仕事に戻った。
けれどその横顔は、何かを静かに繋ぎ合わせ始めているように見えた。
今度は昼間で、もちろん殿下も一緒だった。
「殿下、今日は少し、お猫様とお時間をいただけないかしら。もっと仲良くなりたくて」
魔女がミレイユへ近づく。
「ミィちゃん」
甘い声で呼ぶ。
その呼び方だけで、背中の毛が逆立ちそうだった。
ミレイユは書棚の三段目に跳び上がっている。
床にいたままでは、あの手が届いてしまう気がした。
(上に逃げる。猫の特権ね)
「あら、まあ。高いところに」
「猫は高いところが好きなんだ。下りてこなければ、しばらく待つといい」
「そうしますわ」
ソファに座り、ミレイユの姿をした魔女が待つ。
書棚の上では、猫の姿のミレイユがその様子をじっと見下ろしていた。
なんとも奇妙な光景だ、と自分でも思う。
殿下は書類仕事に戻った。
三十分が経つ。
ミレイユは書棚の上から、ずっと魔女を見ていた。下りる気はまったくない。
魔女の笑顔が、少しずつ疲れてくる。
「……下りてこないわね」
「飽きたら下りてくる。無理強いはできない」
「そうですわね」
言葉は穏やかでも、魔女の口元はもうだいぶ硬かった。
待つこと自体に慣れていないのか、それとも思い通りにならない状況が耐え難いのか。
たぶん両方だろう、とミレイユは思った。
さらに十五分が経った。
ミレイユは高みの見物を決め込みながら、魔女の様子を観察する。
笑顔はさらにこわばり、ソファの肘掛けに置いた指先へ、わずかに力が入っている。
爪が布地を押しているのまで見えた。
そのとき、殿下が書類から目を上げた。
「ミィ。こちらへ」
「ニャア(殿下が呼んでいる。さすがに行かなければ)」
ミレイユは書棚から飛び降りた。
けれど魔女の方には向かわず、まっすぐ殿下の机の方へ歩く。
机の前まで来て見上げると、殿下が手を差し出した。
ミレイユは迷わず、その手に頭をそっと押しつける。
「そうか、ここにいたかったのか」
「ニャア(そういうことにしてください)」
「机の上には乗るなと言っているが……まあ、今日は特別に」
殿下の大きな手が、ミレイユの背中をゆっくり撫でた。
ミレイユはごろごろと喉を鳴らす。
机の向こう、ソファに座る魔女がこちらを見ていた。
笑顔は保とうとしている。けれど目の奥には、剥き出しの苛立ちがあった。
「……仲良しなのですわね、殿下とお猫様は。まるで……殿下の方が懐いているみたい」
「そうかもしれない」
「今日はこれくらいにしますわ」
「では、侍従に送らせよう」
魔女が退室した。
足音が少しだけ、いつもより硬い。
扉が閉まってから、殿下がミレイユを見た。
「お前は本当に、あの方が好きではないのだな」
「ニャア(好きなわけがありません)」
「そうか」
殿下の手が、もう一度ミレイユの頭を撫でた。
「……まあ、猫の勘というのは馬鹿にできない」
それだけ言って、殿下は書類へ戻った。
けれど、その横顔は少しだけ考え込んでいるようにも見えた。
さっきのやり取りを、殿下なりに反芻しているのかもしれない。
この『二回目の惨敗』のあと、王宮には小さな変化が起きた。
魔女が無視しようとした侍女たちのことが、改めて話題になったのだ。
接見時間に来ていた侍女のひとりが、その日の夕方、侍女長にこっそり報告した。
「先日、廊下でミレイユ様とすれ違ったとき……お猫様を見て、ひどく険しい顔をなさっていて。怖かったんです」
「ふむ」
「それから、ミレイユ様がわたくしたちに普段とても無礼なお言葉を……ご本人はご機嫌のいいときは何もなさらないのですが、ご機嫌が悪いときに廊下で会うと、大変なことを仰って」
「それは以前から?」
「最初から……そうですね、初日から」
侍女長は何も言わなかった。
ただ「覚えておく」とだけ言った。
その短い返答のあと、手元の記録帳へ何かを書きつける。
見ていた侍女は少しだけ、ほっとした。
少なくとも、誰かは気づき始めている。
ミレイユではない『ミレイユ様』の違和感に。
翌週のこと。
魔女の苛立ちは、じわじわと宮廷の空気に滲み出すようになっていた。
侍女たちへの当たりが強くなった。
何かにつけて命令口調になり、少しでも気に入らないことがあると、声がひやりと冷たくなる。
婚約者という立場から真正面からは逆らえず、侍女たちが侍女長に泣きついてくることも増えたらしい。
一方で、ミレイユは——というと。
王様が『お猫様専用のお茶碗』を陶芸家に特注した。
王妃からは特製の刺繍入りクッションをもらった。
殿下にいたっては、生け垣の隙間へ安全な小道を作り、『お猫様専用の散歩コース』まで整備した。
宮廷の『お猫様』人気は、もはや手がつけられないところまで来ていた。
そんな中、魔女が三度目の来訪をした。
その日は、殿下が午前中の政務会議で不在だった。
執務室にはミレイユと侍従だけがいる。
扉をノックする音がして、魔女が入ってきた。
ミレイユはソファの上から顔を上げ、魔女を見た。
(今日は、殿下がいない)
魔女もそれをわかっている。
だからこそ来たのだろう。
「侍従、少し席を外してくれないかしら。お猫様と二人で仲良くしたいの」
侍従が一瞬、固まった。
ほんのわずかな間だったが、困惑と警戒が顔に出る。
「それは……殿下のお許しなく、お猫様と二人きりになることは、わたくしの一存では」
「私は婚約者よ」
「はい」
「婚約者のお願いも聞けないの?」
声が少し低くなった。
侍従が言葉を探すように口を閉じる。
そのとき、ミレイユはソファから降り、侍従のそばへまっすぐ歩み寄った。
侍従の靴の横へぴたりと座ると、彼は目に見えてほっとした顔になる。
「お猫様、お傍に」
その瞬間だった。
「出なくていい、侍従」
低い声が、扉の方から聞こえた。
全員が振り返る。
殿下が立っていた。
政務会議が早めに終わったのか。
それとも——侍従が何らかの形で知らせていたのか。
そこまではわからない。
けれど、来てくれた。それだけで十分だった。
「殿下……」
「執務室に猫だけを残すつもりか」
「少し、二人で仲良くなりたかっただけですわ。ご一緒に席を外してくだされば、それで」
「ミィが嫌がっている」
「嫌がって……猫が何を」
「ミィの意志を尊重する」
殿下の声は静かだった。
静かなのに、一歩も引かない。
その言い方に、魔女の笑顔がはじめてはっきりと歪んだ。
「……猫の意志を、ですって」
「そうだ」
短い沈黙が落ちる。
そのあいだ、ミレイユはじっと魔女を見ていた。
耳は少し伏せていたが、目だけは逸らさない。
「猫の意志を、婚約者である私より優先されるのですか」
「優先しているわけではない。ただ、ミィを一人にするつもりはない」
その一言に、魔女の目の奥で何かがひどく冷たく光った。
もう『優雅な令嬢』の仮面は薄い。
取り繕ってはいるが、内側の苛立ちが隠しきれていなかった。
「……わかりましたわ」
魔女が一礼して退室する。
足音は優雅さを装っていても、かすかに硬かった。
扉が閉まる。
そこでようやく、張り詰めていた空気が少し緩んだ。
「侍従、ご苦労」
「は、はい……」
侍従がほっとした顔でお辞儀をする。
殿下がミレイユを見た。
ミレイユも見上げる。
「怖かったか」
「ニャア(少しだけ)」
「そうか」
殿下がミレイユを抱き上げる。
腕の中へ収まると、さっきまで逆立ちそうだった毛が自然と落ち着いていく。
情けないくらい、体は正直だった。
その夜、侍従が殿下に追加の報告をした。
侍女たちから上がっている証言について。
廊下での無礼な言動について。
機嫌の悪いときの冷たい物言いについて。
殿下は無言で最後まで聞いた。
「……そうか」
それだけ言って、殿下は書類仕事に戻った。
けれどその横顔は、何かを静かに繋ぎ合わせ始めているように見えた。



