定例会食の日、魔女は席についてから、ずっと不機嫌だった。
殿下との会話が弾まない。
王妃は殿下の話には熱心に相槌を打つのに、自分へ話を振ることは少ない。
王様にいたっては、ほとんど口を開かず、ただ静かに場を見ている。
その目が、何もかも見透かしているようで、妙に落ち着かなかった。
そして何より——
(王太子が、最近変わった)
以前の殿下は、もっと遠い目をしていることが多かった。
婚約者と向き合っていても、どこか一歩引いたような、温度の薄いまなざしだったはずだ。
けれど最近は違う。
目の奥に何かしらの温度がある。
疲れていても、どこか穏やかで、朝の顔つきまでやわらかい。
その変化が、魔女には気持ち悪かった。
自分がいる。
自分が婚約者として王宮にいる。
なのに、殿下が変わった理由が自分ではない——その確信だけが、じわじわと胸の底を逆なでした。
(あの猫……)
王宮の庭から白猫が消えて、もう何日も経つ。
庭師に確認しても「見ていない」と言う。
几帳面な侍従も「最近は見かけません」と答えた。
だから、どこかへ逃げたのだろうと思っていた。
あるいは、誰かに追い払われ、そのまま王宮の外で野垂れ死んだか。
それならそれで、都合がよかったのに。
(でも……)
魔女の目が、ふと殿下の袖に止まった。
濃紺の上衣の袖口に、白い毛が一本、光を受けてきらりと浮いている。
(白い毛……?)
猫の毛だ。
細くて、やわらかそうな白い毛。
見間違えようがない。
魔女の目が、すっと細くなった。
「殿下」
会食の席で、魔女は口を開いた。
優雅な笑みを浮かべたまま、声色も崩さずに。
「お召し物に、何か……ついているようでございますわ」
「お気になさらず。猫の毛です」
「猫……?」
「王宮で飼っている猫がいてね。よく懐くので、こうなる」
魔女の笑顔が、一瞬だけ固まった。
(飼っている猫……!?まだ、いたの!?)
王宮の庭から消えたのではなく——建物の中へ入れてもらっていた、ということか。
魔女は笑みを崩さないまま、内側で怒りが煮えたぎるのを感じた。
あの白猫は、ただ逃げ延びただけではない。もっと厄介な場所へ潜り込んでいたのだ。
「まあ、猫をお飼いに……どちらに?」
「執務室に」
「それは……素敵ですこと」
声はあくまで穏やかに保つ。
だが内心では、次の一手をもう考え始めていた。
(直接見に行かなければ。確かめなければ。そして——)
「殿下、もしよろしければ、その猫に会わせていただけますでしょうか。わたくし、猫が好きで……ぜひ」
殿下が、少し間を置いた。
その間が妙に長く感じられる。
「てっきり好きではないのかと、猫が」
「え?」
「以前、庭の猫を追い出すよう命令していたと聞いたので」
魔女は笑顔を崩さないまま、内側でひやりとした。
そこを拾うのか、と一瞬だけ舌打ちしたくなる。
「あれは……お庭のものとは別で、室内で飼われているのでしたら、話が違いますわ。ぜひ、ご紹介を」
殿下がしばらくミレイユ——いや、魔女を見た。
その視線は、ただ返事を考えている目ではない。
何かを測っている。見定めようとしている。
それが魔女には不快だった。
「……明日の午後にでも」
「ありがとうございます」
魔女は優雅にお辞儀した。
形だけなら、完璧な婚約者の礼だった。
その顔の下で、考えていた。
(今度こそ、確実に追い出さなければ)
翌日の午後。
殿下の執務室の扉が開いた。
ミレイユは書棚の前で本の背表紙を読んでいた。
反射的に扉の方を振り返る。
(来た。殿下と……もう一つ違う足音)
偽ミレイユが入ってくる。
殿下の少し後ろに、優雅な笑みを浮かべながら。
その歩き方も、顎の上げ方も、たしかにミレイユの姿をしているのに、中身だけがまるで違う。
それが遠目にもわかってしまうことに、ミレイユはぞっとした。
ミレイユは動かなかった。
逃げない。怯まない。少なくとも、ここでは。
魔女の目がミレイユを捉えた瞬間、その笑顔がわずかに歪んだ。
ほんの一瞬のことだ。
殿下には見えなかったかもしれない。
でもミレイユには、はっきり見えた。
あれは驚きではない。苛立ちと、警戒だ。
「ミィ、こちらはミレイユ嬢だ」
「まあ……本当に白猫なのですね。綺麗な子」
魔女が口を開く。
声は優雅さを保っている。耳に馴染んだ、自分自身の声だった。
でもその柔らかさの下にあるものを、ミレイユはもう知っている。
ミレイユは殿下のそばへ歩み寄った。
(知ってる。知りすぎるほど知ってる)
ミレイユは魔女を見た。
魔女もミレイユを見た。
どちらも動かない。
静かな執務室の中で、その一瞬だけ空気がぴんと張った。
「……可愛い子ですこと」
(私の声。こんなふうに聞こえるんだ)
その言い方に、ミレイユはかすかに耳を伏せた。
魔女がしゃがみ、手を差し伸べてくる。
細くてきれいな指先。
けれど、その手に触れたいとは、ひとかけらも思えなかった。
ミレイユは一歩後ろへ下がった。
(近づくと思ったら大間違い。近づくわけないでしょ……)
「あら、人見知りかしら」
「そういうわけでもないんだが。まあ、猫は気まぐれだから」
「そうですわね。ところで殿下、この子はいつもここに?」
「ああ。執務室か寝所にいる」
「寝所に……」
魔女の目の奥で、何かが光った。
一瞬だけ、笑顔の奥に計算が走るのが見えた。
「それは……お猫様は大変なご寵愛を受けていらっしゃるのですね」
「そうかもしれない」
殿下が静かにそう返すと、魔女が立ち上がる。
その目が、上からミレイユを見下ろした。
口元の笑みは綺麗に保たれているのに、目だけが冷えている。
(邪魔だ、と思っているのね)
ミレイユはその視線を受け止めた。
逃げない。
ここで目を逸らしたくなかった。
「……愛らしい子ですわ。また会いに来てもよろしいですか、殿下」
「構わない」
(できれば、あまり会いたくないんだけど……)
魔女が退室すると、張っていた空気が少しだけゆるんだ。
ミレイユは殿下を見上げる。
「何かあったか」
「ニャア(なんでもありません。ただ、あの人は信用できません、と伝えたいのですが、猫には難しい)」
「そうか。……まあ、ここにいなさい」
「ニャァ(はい)」
殿下が静かに言う。
短い言葉なのに、それだけで少し落ち着いた。
その夜、魔女が動いた。
深夜、廊下の物陰で侍従を呼び止める。
「ちょっとよろしいかしら」
「ミレイユ様、こんな夜更けに何か」
「あの猫のこと。少し聞きたいことがあるのだけれど。どこにいるときが多いの?殿下がいらっしゃらないときは?」
「……それをお聞きになって、どうされるのでしょうか」
「ただの興味よ。可愛い猫だったから、もっとよく見てみたくて」
侍従が少しだけ、考えた末に答えた。
「お猫様はいつでも執務室か寝所においでですが……」
「そう、ありがとう」
魔女は笑顔を保ったまま立ち去った。
その後ろ姿を見送りながら、侍従はしばらくその場を動かなかった。
殿下との会話が弾まない。
王妃は殿下の話には熱心に相槌を打つのに、自分へ話を振ることは少ない。
王様にいたっては、ほとんど口を開かず、ただ静かに場を見ている。
その目が、何もかも見透かしているようで、妙に落ち着かなかった。
そして何より——
(王太子が、最近変わった)
以前の殿下は、もっと遠い目をしていることが多かった。
婚約者と向き合っていても、どこか一歩引いたような、温度の薄いまなざしだったはずだ。
けれど最近は違う。
目の奥に何かしらの温度がある。
疲れていても、どこか穏やかで、朝の顔つきまでやわらかい。
その変化が、魔女には気持ち悪かった。
自分がいる。
自分が婚約者として王宮にいる。
なのに、殿下が変わった理由が自分ではない——その確信だけが、じわじわと胸の底を逆なでした。
(あの猫……)
王宮の庭から白猫が消えて、もう何日も経つ。
庭師に確認しても「見ていない」と言う。
几帳面な侍従も「最近は見かけません」と答えた。
だから、どこかへ逃げたのだろうと思っていた。
あるいは、誰かに追い払われ、そのまま王宮の外で野垂れ死んだか。
それならそれで、都合がよかったのに。
(でも……)
魔女の目が、ふと殿下の袖に止まった。
濃紺の上衣の袖口に、白い毛が一本、光を受けてきらりと浮いている。
(白い毛……?)
猫の毛だ。
細くて、やわらかそうな白い毛。
見間違えようがない。
魔女の目が、すっと細くなった。
「殿下」
会食の席で、魔女は口を開いた。
優雅な笑みを浮かべたまま、声色も崩さずに。
「お召し物に、何か……ついているようでございますわ」
「お気になさらず。猫の毛です」
「猫……?」
「王宮で飼っている猫がいてね。よく懐くので、こうなる」
魔女の笑顔が、一瞬だけ固まった。
(飼っている猫……!?まだ、いたの!?)
王宮の庭から消えたのではなく——建物の中へ入れてもらっていた、ということか。
魔女は笑みを崩さないまま、内側で怒りが煮えたぎるのを感じた。
あの白猫は、ただ逃げ延びただけではない。もっと厄介な場所へ潜り込んでいたのだ。
「まあ、猫をお飼いに……どちらに?」
「執務室に」
「それは……素敵ですこと」
声はあくまで穏やかに保つ。
だが内心では、次の一手をもう考え始めていた。
(直接見に行かなければ。確かめなければ。そして——)
「殿下、もしよろしければ、その猫に会わせていただけますでしょうか。わたくし、猫が好きで……ぜひ」
殿下が、少し間を置いた。
その間が妙に長く感じられる。
「てっきり好きではないのかと、猫が」
「え?」
「以前、庭の猫を追い出すよう命令していたと聞いたので」
魔女は笑顔を崩さないまま、内側でひやりとした。
そこを拾うのか、と一瞬だけ舌打ちしたくなる。
「あれは……お庭のものとは別で、室内で飼われているのでしたら、話が違いますわ。ぜひ、ご紹介を」
殿下がしばらくミレイユ——いや、魔女を見た。
その視線は、ただ返事を考えている目ではない。
何かを測っている。見定めようとしている。
それが魔女には不快だった。
「……明日の午後にでも」
「ありがとうございます」
魔女は優雅にお辞儀した。
形だけなら、完璧な婚約者の礼だった。
その顔の下で、考えていた。
(今度こそ、確実に追い出さなければ)
翌日の午後。
殿下の執務室の扉が開いた。
ミレイユは書棚の前で本の背表紙を読んでいた。
反射的に扉の方を振り返る。
(来た。殿下と……もう一つ違う足音)
偽ミレイユが入ってくる。
殿下の少し後ろに、優雅な笑みを浮かべながら。
その歩き方も、顎の上げ方も、たしかにミレイユの姿をしているのに、中身だけがまるで違う。
それが遠目にもわかってしまうことに、ミレイユはぞっとした。
ミレイユは動かなかった。
逃げない。怯まない。少なくとも、ここでは。
魔女の目がミレイユを捉えた瞬間、その笑顔がわずかに歪んだ。
ほんの一瞬のことだ。
殿下には見えなかったかもしれない。
でもミレイユには、はっきり見えた。
あれは驚きではない。苛立ちと、警戒だ。
「ミィ、こちらはミレイユ嬢だ」
「まあ……本当に白猫なのですね。綺麗な子」
魔女が口を開く。
声は優雅さを保っている。耳に馴染んだ、自分自身の声だった。
でもその柔らかさの下にあるものを、ミレイユはもう知っている。
ミレイユは殿下のそばへ歩み寄った。
(知ってる。知りすぎるほど知ってる)
ミレイユは魔女を見た。
魔女もミレイユを見た。
どちらも動かない。
静かな執務室の中で、その一瞬だけ空気がぴんと張った。
「……可愛い子ですこと」
(私の声。こんなふうに聞こえるんだ)
その言い方に、ミレイユはかすかに耳を伏せた。
魔女がしゃがみ、手を差し伸べてくる。
細くてきれいな指先。
けれど、その手に触れたいとは、ひとかけらも思えなかった。
ミレイユは一歩後ろへ下がった。
(近づくと思ったら大間違い。近づくわけないでしょ……)
「あら、人見知りかしら」
「そういうわけでもないんだが。まあ、猫は気まぐれだから」
「そうですわね。ところで殿下、この子はいつもここに?」
「ああ。執務室か寝所にいる」
「寝所に……」
魔女の目の奥で、何かが光った。
一瞬だけ、笑顔の奥に計算が走るのが見えた。
「それは……お猫様は大変なご寵愛を受けていらっしゃるのですね」
「そうかもしれない」
殿下が静かにそう返すと、魔女が立ち上がる。
その目が、上からミレイユを見下ろした。
口元の笑みは綺麗に保たれているのに、目だけが冷えている。
(邪魔だ、と思っているのね)
ミレイユはその視線を受け止めた。
逃げない。
ここで目を逸らしたくなかった。
「……愛らしい子ですわ。また会いに来てもよろしいですか、殿下」
「構わない」
(できれば、あまり会いたくないんだけど……)
魔女が退室すると、張っていた空気が少しだけゆるんだ。
ミレイユは殿下を見上げる。
「何かあったか」
「ニャア(なんでもありません。ただ、あの人は信用できません、と伝えたいのですが、猫には難しい)」
「そうか。……まあ、ここにいなさい」
「ニャァ(はい)」
殿下が静かに言う。
短い言葉なのに、それだけで少し落ち着いた。
その夜、魔女が動いた。
深夜、廊下の物陰で侍従を呼び止める。
「ちょっとよろしいかしら」
「ミレイユ様、こんな夜更けに何か」
「あの猫のこと。少し聞きたいことがあるのだけれど。どこにいるときが多いの?殿下がいらっしゃらないときは?」
「……それをお聞きになって、どうされるのでしょうか」
「ただの興味よ。可愛い猫だったから、もっとよく見てみたくて」
侍従が少しだけ、考えた末に答えた。
「お猫様はいつでも執務室か寝所においでですが……」
「そう、ありがとう」
魔女は笑顔を保ったまま立ち去った。
その後ろ姿を見送りながら、侍従はしばらくその場を動かなかった。



