ある日の昼下がり。
徐々に、殿下が何に疲れているのかわかってきた。
王宮の定例会食は、週に二度行われる。
王族と、婚約者として滞在中の令嬢——すなわち偽ミレイユ——が一堂に会して食事をとる、宮廷の習わしだ。
王様、王妃、王太子、そして婚約者。
正式な儀式ではないけれど、それなりの格式があり、気を抜いていい場ではない。
そしてこの会食があると、殿下の疲労は目に見えて濃くなる。
会食のあとに執務室へ戻ってきたときの歩き方も、声の低さも、いつもより少し重い。
あの席で何が起きているのかまではわからない。
でも、少なくとも殿下にとって、心休まる時間ではないのだろう。
その日、殿下には珍しく午後の公務のない時間があった。
政務会議が予定より早く終わり、次の謁見まで二時間ほど空いていたのだ。
殿下は執務室に戻ると、書類仕事ではなく——本を読んでいた。
珍しかった。
殿下が仕事以外のことをしている場面を、ミレイユはあまり見たことがない。
「ミィ、こちらへ」
殿下が呼ぶ。
ミレイユが近づくと、殿下はソファに座ったまま、本を開いた状態で手を差し出した。
「フニャ?(膝に乗れということ?)」
ミレイユはためらわずに乗った。
最近は、こういうことにあまりためらわなくなってきた。
これも慣れというものなのか、それとも別の何かなのか。
そこは深く考えないことにしている。
殿下がミレイユを膝に乗せたまま、本を読み始めた。
ミレイユもページを見た。歴史書らしい。
けれど膝の上からでは文字が逆さで、読むのは難しい。
(まあ、いいです……)
ミレイユは殿下の膝の上で、ゆったりと丸まった。
窓から差し込む午後の光はやわらかく、どこかで鳥が鳴いている。
ページを捲る音も静かで、部屋の中に穏やかな時間だけが流れていた。
(こういう時間、好きかもしれない……)
そう思ってから、自分で少し驚いた。
『好き』という言葉を、この状況に使ったからだ。
たしかに、好きだった。
この静かな時間が。
殿下の膝の温もりが。
午後の光が。
何も言わなくても、ただここにいていいと思える感じが。
追い立てられず、役目を求められず、黙って寄り添っていられる、この静けさが。
(猫としての『好き』よ)
と付け加えてみたけれど、それは少し苦しい言い訳だとも思った。
「……眠そうだな」
殿下が本のページを捲りながら言った。
「眠っていいぞ」
「ニャア(許可が出た)」
ミレイユは目を細めると、くあっと欠伸が出た。
殿下の膝の熱が、体の奥までじんわりと広がっていく。
まぶたが重い。耳の力まで抜けていく。
(では、少しだけ……)
目が閉じていく。
殿下のページを捲る音が、少しずつ遠くなる。
(この人のそばが——)
意識が薄れる前、最後にそう思った。
——この人のそばが、一番安心する、と。
ミレイユが目を覚ましたとき、殿下の本は閉じられていた。
殿下は書類仕事に戻っているのかと思ったが、違った。
殿下もソファの背もたれに少し頭を預け、目を閉じていた。
(え……殿下も、眠っている?)
二人で——いや、猫と王太子で——昼寝をしてしまったらしい。
それだけ殿下も張り詰めていたのだろう、とミレイユは思う。
ミレイユはそっと殿下の顔を見た。
この顔は、公の場でも、夜の執務室でも見せない顔だ。
昼の光の中で力が抜けていて、ただ静かに穏やかだった。
(綺麗な顔をしているんだな、この人)
そういうことを考えてはいけないと思いながら、目をそらせなかった。
(早く人間に戻りたい……私が人間に戻っても……同じように接してくれますか?)
殿下が小さく息をついた。
眠りの浅いところへ来たのかもしれない。
ミレイユはとっさに動きを止める。
でも殿下は目を覚まさず、また深い寝息へ戻っていった。
(……よかった。もう少しだけ、ここにいよう)
ミレイユは再び丸まった。
殿下の膝の熱がまだ残っている。
それに頬を寄せるようにして、もう一度そっと目を閉じた。
今だけは、何も考えずに。少しだけ。
その夜、ミレイユは殿下の寝所で待っていた。
会食のあいだ、さすがにミレイユは同席できない。
執務室か寝所で留守番、というのがここ数週間の決まった流れになっていた。
侍従がときどき様子を見に来てくれるので、完全に一人きりというわけではないけれど、それでも会食の夜は、どうしても落ち着かなかった。
(今夜の会食はどんな様子かな)
窓辺に座り、夜の庭を見下ろす。
王宮に潜り込んでから、もうずいぶん経った。
最初は雨をしのぐ場所を探すだけで精一杯だったのに、今ではこうして王太子の寝所で帰りを待っているのだから、不思議なものだ。
魔女はまだそこにいる。
偽ミレイユとして、着々と王宮での立場を固めようとしている。
でも殿下との仲は——どうやら、うまくいっていないらしいことが少しずつわかってきていた。
殿下は、偽ミレイユと距離を置いていた。
それが魔女の計算違いだったのかもしれない。
殿下は『謹厳な御方』という評判どおり、婚約者だからといって急に親しくなるような人ではない。
むしろ相手を見極めてから、ゆっくり距離を縮める人だ。
そしてその『見極め』の精度は、おそらくかなり高い。
(殿下は……何か感じているのかもしれない)
偽物だとまでは気づいていなくても、何か引っかかるものを覚えているのかもしれない。
そう思うと少しだけ救われる。でも同時に、早く証拠を見つけなければという焦りも強くなった。
(早く、証拠が見つかれば)」
自分が嫌われてしまっているかもしれないのは、少し不安だけれど。
ミレイユは窓の外を見ながら、そっと息をついた。
会食が終わり、殿下が寝所に戻ってきたのは夜の十時頃だった。
「ミィ」
その声が聞こえた途端、ミレイユは窓辺から飛び降り、殿下のそばへ歩み寄った。
「ただいま」
「ニャア(おかえりなさい)」
殿下がミレイユを抱き上げる。
いつもの抱き方。胸元へ収まると、それだけで少し安心した。
自分でもずいぶんこの体勢に慣れてしまったと思う。
「今夜の会食は……少し疲れた」
珍しく、そんなことを口にした。
殿下が疲れたと、しかも言葉にして漏らすのは本当に珍しい。
「ニャア(気がついていたけれど……何かあった?)」
「大したことではない」
そう言いながら、殿下はソファに座り、ミレイユを膝に乗せたまましばらく黙っていた。
ミレイユは殿下の顔を見上げる。
その顔は、何かを考えているような、決めかねているような、そんな曖昧な陰を帯びていた。
(話したいことがある?)
「……ミィ、お前に聞いてもわからないかもしれないが」
殿下がぽつりとつぶやく。
「ミャー(聞きます。全部聞きます)」
「婚約者というのは、どういうものなのだろうな」
(え?)
思わず耳がぴんと立った。
「会うたびに、何か……引っかかる感じがする。うまく言えないのだが、何かが違う気がして。それが何なのかわからない」
(引っかかる……殿下も気づいているんだ)
やっぱり、と思った。
でも言えない。猫には言えない。
本当は今すぐ、そうよ、その違和感は正しいの、あれは私じゃないの、と伝えたいのに。
ミレイユは殿下の膝の上から前足を伸ばし、殿下の手にそっと触れた。
殿下が視線を落とす。
「……何だ」
「ニャア(そうよ。引っかかっていいのよ。あれは偽物なの。殿下の感覚は正しい)」
「励ましているのか、お前は」
「ニャア(そういうことにしておいてください)」
殿下が、ほんの少し笑った。
その小さな笑みを見ただけで、胸の奥がじんとした。
その夜、殿下が眠ったあと、ミレイユはいつものように枕元へ近づいた。
黒い髪が、やわらかく広がっている。
「ぺろ、ぺろぺろ(今夜は……お疲れ様でした、という気持ちで。少しだけ念入りに……)」
「ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ(大丈夫。殿下は正しく感じている)」
舐めながら、ミレイユは思う。
こうしていると、不思議と気持ちが落ち着く。
殿下を安心させたいのか、自分が安心したいのか、もうよくわからない。
ただ今夜だけは、少しでもこの人の疲れが軽くなればいいと、心からそう思った。
ミレイユはやがて観念して、ベッドの端へ戻った。
小さく丸まり、尻尾を鼻先へ巻きつける。
暖炉の火が揺れている。橙色の光が、寝所の中を静かに染めていた。
殿下は正しく違和感を覚えている。
ミレイユは目を閉じた。
今夜は少しだけ、希望を抱いたまま眠れそうだった。
徐々に、殿下が何に疲れているのかわかってきた。
王宮の定例会食は、週に二度行われる。
王族と、婚約者として滞在中の令嬢——すなわち偽ミレイユ——が一堂に会して食事をとる、宮廷の習わしだ。
王様、王妃、王太子、そして婚約者。
正式な儀式ではないけれど、それなりの格式があり、気を抜いていい場ではない。
そしてこの会食があると、殿下の疲労は目に見えて濃くなる。
会食のあとに執務室へ戻ってきたときの歩き方も、声の低さも、いつもより少し重い。
あの席で何が起きているのかまではわからない。
でも、少なくとも殿下にとって、心休まる時間ではないのだろう。
その日、殿下には珍しく午後の公務のない時間があった。
政務会議が予定より早く終わり、次の謁見まで二時間ほど空いていたのだ。
殿下は執務室に戻ると、書類仕事ではなく——本を読んでいた。
珍しかった。
殿下が仕事以外のことをしている場面を、ミレイユはあまり見たことがない。
「ミィ、こちらへ」
殿下が呼ぶ。
ミレイユが近づくと、殿下はソファに座ったまま、本を開いた状態で手を差し出した。
「フニャ?(膝に乗れということ?)」
ミレイユはためらわずに乗った。
最近は、こういうことにあまりためらわなくなってきた。
これも慣れというものなのか、それとも別の何かなのか。
そこは深く考えないことにしている。
殿下がミレイユを膝に乗せたまま、本を読み始めた。
ミレイユもページを見た。歴史書らしい。
けれど膝の上からでは文字が逆さで、読むのは難しい。
(まあ、いいです……)
ミレイユは殿下の膝の上で、ゆったりと丸まった。
窓から差し込む午後の光はやわらかく、どこかで鳥が鳴いている。
ページを捲る音も静かで、部屋の中に穏やかな時間だけが流れていた。
(こういう時間、好きかもしれない……)
そう思ってから、自分で少し驚いた。
『好き』という言葉を、この状況に使ったからだ。
たしかに、好きだった。
この静かな時間が。
殿下の膝の温もりが。
午後の光が。
何も言わなくても、ただここにいていいと思える感じが。
追い立てられず、役目を求められず、黙って寄り添っていられる、この静けさが。
(猫としての『好き』よ)
と付け加えてみたけれど、それは少し苦しい言い訳だとも思った。
「……眠そうだな」
殿下が本のページを捲りながら言った。
「眠っていいぞ」
「ニャア(許可が出た)」
ミレイユは目を細めると、くあっと欠伸が出た。
殿下の膝の熱が、体の奥までじんわりと広がっていく。
まぶたが重い。耳の力まで抜けていく。
(では、少しだけ……)
目が閉じていく。
殿下のページを捲る音が、少しずつ遠くなる。
(この人のそばが——)
意識が薄れる前、最後にそう思った。
——この人のそばが、一番安心する、と。
ミレイユが目を覚ましたとき、殿下の本は閉じられていた。
殿下は書類仕事に戻っているのかと思ったが、違った。
殿下もソファの背もたれに少し頭を預け、目を閉じていた。
(え……殿下も、眠っている?)
二人で——いや、猫と王太子で——昼寝をしてしまったらしい。
それだけ殿下も張り詰めていたのだろう、とミレイユは思う。
ミレイユはそっと殿下の顔を見た。
この顔は、公の場でも、夜の執務室でも見せない顔だ。
昼の光の中で力が抜けていて、ただ静かに穏やかだった。
(綺麗な顔をしているんだな、この人)
そういうことを考えてはいけないと思いながら、目をそらせなかった。
(早く人間に戻りたい……私が人間に戻っても……同じように接してくれますか?)
殿下が小さく息をついた。
眠りの浅いところへ来たのかもしれない。
ミレイユはとっさに動きを止める。
でも殿下は目を覚まさず、また深い寝息へ戻っていった。
(……よかった。もう少しだけ、ここにいよう)
ミレイユは再び丸まった。
殿下の膝の熱がまだ残っている。
それに頬を寄せるようにして、もう一度そっと目を閉じた。
今だけは、何も考えずに。少しだけ。
その夜、ミレイユは殿下の寝所で待っていた。
会食のあいだ、さすがにミレイユは同席できない。
執務室か寝所で留守番、というのがここ数週間の決まった流れになっていた。
侍従がときどき様子を見に来てくれるので、完全に一人きりというわけではないけれど、それでも会食の夜は、どうしても落ち着かなかった。
(今夜の会食はどんな様子かな)
窓辺に座り、夜の庭を見下ろす。
王宮に潜り込んでから、もうずいぶん経った。
最初は雨をしのぐ場所を探すだけで精一杯だったのに、今ではこうして王太子の寝所で帰りを待っているのだから、不思議なものだ。
魔女はまだそこにいる。
偽ミレイユとして、着々と王宮での立場を固めようとしている。
でも殿下との仲は——どうやら、うまくいっていないらしいことが少しずつわかってきていた。
殿下は、偽ミレイユと距離を置いていた。
それが魔女の計算違いだったのかもしれない。
殿下は『謹厳な御方』という評判どおり、婚約者だからといって急に親しくなるような人ではない。
むしろ相手を見極めてから、ゆっくり距離を縮める人だ。
そしてその『見極め』の精度は、おそらくかなり高い。
(殿下は……何か感じているのかもしれない)
偽物だとまでは気づいていなくても、何か引っかかるものを覚えているのかもしれない。
そう思うと少しだけ救われる。でも同時に、早く証拠を見つけなければという焦りも強くなった。
(早く、証拠が見つかれば)」
自分が嫌われてしまっているかもしれないのは、少し不安だけれど。
ミレイユは窓の外を見ながら、そっと息をついた。
会食が終わり、殿下が寝所に戻ってきたのは夜の十時頃だった。
「ミィ」
その声が聞こえた途端、ミレイユは窓辺から飛び降り、殿下のそばへ歩み寄った。
「ただいま」
「ニャア(おかえりなさい)」
殿下がミレイユを抱き上げる。
いつもの抱き方。胸元へ収まると、それだけで少し安心した。
自分でもずいぶんこの体勢に慣れてしまったと思う。
「今夜の会食は……少し疲れた」
珍しく、そんなことを口にした。
殿下が疲れたと、しかも言葉にして漏らすのは本当に珍しい。
「ニャア(気がついていたけれど……何かあった?)」
「大したことではない」
そう言いながら、殿下はソファに座り、ミレイユを膝に乗せたまましばらく黙っていた。
ミレイユは殿下の顔を見上げる。
その顔は、何かを考えているような、決めかねているような、そんな曖昧な陰を帯びていた。
(話したいことがある?)
「……ミィ、お前に聞いてもわからないかもしれないが」
殿下がぽつりとつぶやく。
「ミャー(聞きます。全部聞きます)」
「婚約者というのは、どういうものなのだろうな」
(え?)
思わず耳がぴんと立った。
「会うたびに、何か……引っかかる感じがする。うまく言えないのだが、何かが違う気がして。それが何なのかわからない」
(引っかかる……殿下も気づいているんだ)
やっぱり、と思った。
でも言えない。猫には言えない。
本当は今すぐ、そうよ、その違和感は正しいの、あれは私じゃないの、と伝えたいのに。
ミレイユは殿下の膝の上から前足を伸ばし、殿下の手にそっと触れた。
殿下が視線を落とす。
「……何だ」
「ニャア(そうよ。引っかかっていいのよ。あれは偽物なの。殿下の感覚は正しい)」
「励ましているのか、お前は」
「ニャア(そういうことにしておいてください)」
殿下が、ほんの少し笑った。
その小さな笑みを見ただけで、胸の奥がじんとした。
その夜、殿下が眠ったあと、ミレイユはいつものように枕元へ近づいた。
黒い髪が、やわらかく広がっている。
「ぺろ、ぺろぺろ(今夜は……お疲れ様でした、という気持ちで。少しだけ念入りに……)」
「ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ(大丈夫。殿下は正しく感じている)」
舐めながら、ミレイユは思う。
こうしていると、不思議と気持ちが落ち着く。
殿下を安心させたいのか、自分が安心したいのか、もうよくわからない。
ただ今夜だけは、少しでもこの人の疲れが軽くなればいいと、心からそう思った。
ミレイユはやがて観念して、ベッドの端へ戻った。
小さく丸まり、尻尾を鼻先へ巻きつける。
暖炉の火が揺れている。橙色の光が、寝所の中を静かに染めていた。
殿下は正しく違和感を覚えている。
ミレイユは目を閉じた。
今夜は少しだけ、希望を抱いたまま眠れそうだった。



