追い出された白猫姫は、王太子にお猫様として溺愛される

 翌日。
 ミレイユは昨夜のことを、かなり真剣に考えた。

 結論として、あれは『猫の甘え行動』である。
 猫が安心できる相手や、好きだと認識した相手に体を擦りつけるのは、本能的な行為だと聞いたことがある。
 たしか、匂いをつける意味もあったはずだ。
 つまり、あれは純粋に猫の習性であって、人間としての感情とは切り分けて考えるべきものなのだ。
 少なくとも、そうでなければ困る。非常に困る。

(そう。あれは猫の本能。私の意思ではない。だから仕方がない)

 そう自分に言い聞かせた。
 何度も言い聞かせた。
 朝の身支度のあいだも、朝食の魚を食べているあいだも、窓辺でひなたぼっこをしているあいだも、ずっと心の中で唱えていた。

 しかし。

 その夜も、殿下の足元にいたら、同じことが起きた。
 しかも、前日より悪化していた。

 ぐりぐりぐりぐりぐりぐり。

(またやってしまってる!?)

 額から頬へ、頬から顎へ、顎からまた額へ。
 殿下の足に、顔全体をこれでもかと擦りつけている。
 昨日は「つい」だったのに、今日はもう、明らかに積極的だった。
 止めようと思っても、体の方が『もっと』と言ってくる。

(なんで!?昨日あんなに反省したじゃない!)
「ミィ。今日はずいぶん甘えるな」
「ニャア(甘えてません!甘えてませんけど体が勝手に——!)」
「そうか」

 殿下がしゃがみ込み、ミレイユの頭を撫でた。
 その手が温かくて、ミレイユはまた喉をごろごろと鳴らしてしまう。

「ゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロ(うう……本能に負けている……)」
(でも殿下の手が温かくてつい……いや、ついとかそういう問題ではなく……!)

 殿下がミレイユを抱き上げた。
 目と目が合う。
 青灰色の瞳が、至近距離にある。
 昼間に見るより深い色に見えるのは、夜の灯りのせいだろうか。

「どうした、本当に。今日は様子が違うな」
「ニャア(どうもしてません。猫です。猫の行動です。深い意味はありません)」
「そうか」

 まったく納得していないような声だったが、殿下はそれ以上追及せず、ミレイユをソファに下ろしてまた書類仕事に戻った。
 ミレイユはソファの上で、自分の前足を見つめる。
 見つめても、答えが出るわけではない。

(……本当に、勝手に動くのよね。喉も身体も)

 困ったことだが、どうすることもできなかった。



 そしてこの夜に、事件が起きた。
 いや、事件というほどではないのかもしれない。
 でもミレイユにとっては、かなり『大変な出来事』だった。

 殿下が今夜も疲れていることは、朝からわかっていた。
 何か難しい案件を抱えているらしく、午前中は謁見、午後は会議、夕食のあとも書類仕事が続いた。
 そのあいだずっと、ミレイユは執務室にいて殿下を見ていた。

 殿下は表情には出さない。
 公の場で顔を乱すことをしない人だ。
 けれど猫としてそばにいると、それ以外のところで疲れが滲み出るのがわかる。
 肩の線。呼吸の間。ペンを持つ指先の重さ。
 夕方になるほど、その全部が少しずつ沈んでいく。
 こちらが何もできないのに、気づいてしまうのがもどかしかった。

(今日も、かなり疲れてる)

 夜も更けて、殿下がようやく仕事を切り上げ、寝所に入った。
 ミレイユも後についていく。
 殿下がベッドに入り、目を閉じる。
 ミレイユはいつものように、ベッドの端へ丸まった。
 今では毎夜ここが定位置だ。

(今日も疲れた顔をしていた……)

 すぐには眠れなかった。
 ミレイユはそっと立ち上がり、寝台の上を音を立てないよう歩く。
 殿下の方へ、少しずつ。

 眠っている殿下の顔を見た。
 公務中や謁見中の顔とは違う。
 力が抜けて、ただの若い人の顔になっている。
 睫毛の影も、呼吸に合わせてわずかに上下する胸元も、眠っている人らしく無防備だった。

(疲れているね……)

 しばらく、その横顔を見ていた。
 なぜ見ているのか、自分でもわからない。
 何かしてあげたいような、でも何もできないような、もどかしい気持ちだけが胸に残る。

(せめて、少しでも楽になってくれれば……)

 そのときだった。
 ふわり、と何かが押し上げてきた。

 衝動、というのか。
『したい』という気持ちが、頭ではなく体の方から込み上げてきた。
 考えるより先に、ひげの先までそわそわするような感覚が走る。

(え?なに?何がしたいの私?)

 ミレイユは殿下の黒髪を見る。

(……ぺろぺろしたい)
(は!?)
(え、ちがう、なんでそういう方向に……)
(でも……したい……ぺろぺろ……)
(しません!しませんよ!王太子に猫が頭をぺろぺろするなんて、失礼極まりない!礼儀知らずにもほどがある!絶対にしません!)

 猫の本能と、令嬢としての理性が激しくぶつかり合った。
 三秒ほど、本気で葛藤した。
 かなり本気だった。たぶん人生でも上位に入るくらい真剣な葛藤だった。

「ぺろ(した!!!!)」

 ミレイユは、殿下の黒髪を一舐めしていた。

(なんで!?なんでしたの私!?)

 自分で自分に衝撃を受けていると、殿下が少しだけ動いた。
 起きたか、とミレイユはぎくりとする。
 耳がぺたりと伏せられ、尻尾の毛がふくらみかけた。
 心臓が、どくんと大きく跳ねる。

 でも殿下の寝息はそのまま、穏やかに続いている。
 眠ったままだ。

(よかった……気づかれなかった)

 ミレイユは素早くベッドの端へ戻り、何事もなかった顔で丸くなった。
 いや、何事もなかった顔をしているつもりだったが、心臓はどきどきしていたし、たぶん耳もまだ少し寝ていた。

(今のは何。猫が好きな相手の頭を舐める、というのは聞いたことがある。あれか。あれが発動したのか。でも令嬢がやることではない。猫だけど。猫だから仕方がないのか。でもやった本人は私だし……)
(そもそも、好きな相手って何。誰が誰を好き。私が殿下を好き、ということ?そういうこと?猫として?それとも……?)
(考えない!考えてはいけない!あれは本能!猫科の本能!私はただ一時的に猫の体を借りている公爵令嬢なので、そういう感情とは無関係!無関係、のはず!)
(混乱する……!)

 頭の中は大混乱なのに、体だけが妙に満たされていた。
 喉の奥から、またごろごろと音が漏れる。

(体は満足しているらしい!!困る!!)

 しかも困ったことに、あの一舐めで少しだけ安心した自分がいる。
 それがいちばん困る、とミレイユは思った。