追い出された白猫姫は、王太子にお猫様として溺愛される

 それは、十五日目の夜のことだった。

 ミレイユはクッションの上で丸まっていた。
 いつものように。
 殿下はベッドに入り、いつものように穏やかな寝息を立てている。
 けれど今夜は、暖炉の火がいつもより少し早く落ちていた。

 体中を毛で覆われているとはいえ、五月の夜は思ったより冷える。
 ミレイユはさらに体をぎゅっと縮こめ、自分の体温を逃がさないように尻尾を鼻先へ巻きつけた。

(寒い……)

 ソファよりは少しいい寝床でも、クッションはベッドほど暖かくない。
 毛布もない。暖炉の火も、もう頼りない。

(ちょっとだけ、ベッドの端に近づけば……)

 ミレイユはそろそろとクッションから立ち上がり、ベッドの端へ近づいた。
 そこからは、毛布の匂いと、殿下の体温がほのかに流れてくる。
 近づいただけでわかる。こちらのほうが、比べものにならないほど暖かい。

(もう少しだけ……)

 ベッドの端に前足をかける。

(乗ってしまえば暖かい。でも、殿下のベッドに勝手に乗るのは……)
(ただの猫がベッドに乗るのは行儀が悪い。でも寒いし、凍えそうだし……いや、凍えてはいないけれど、猫の本能が『暖かいところへ行け』と叫んでいる)
(令嬢としての矜持と、猫の本能が激しく戦っている……!)

 前足をかけたまま、ミレイユは真剣に迷った。
 そのときだった。

「……寒いのか」

 殿下の声がした。
 眠っていたと思ったのに、起きていたらしい。

「乗っていい」
「ニャア(え?いいの?)」
「端の方でじっとしていなさい」
「ニャ(は、はい)」

 ミレイユは、おそるおそるベッドに乗った。
 言われた通り、端の方。殿下の足元に近い場所へ静かに丸まる。
 毛布が近い。寝台そのものが温かい。何より、人の体温がある。

「くわっ……(暖かい……)」

 ほう、と小さく息が漏れた。
 猫の安堵の息は人間より小さいけれど、たしかに体の力が抜けていくのがわかる。
 強ばっていた肩も、背も、前足の先までほどけていく。

「それでいい」

 殿下が呟いた。
 もう目を閉じているのか、声が少し眠たげだった。

 ミレイユは丸まったまま、ゆっくり目を閉じる。

(これが当たり前になってはいけない。でも今夜だけは……)

 今夜だけ。
 そう思いながら、ミレイユはあっという間に眠りに落ちた。

 翌朝、殿下が目を覚ましたとき、ミレイユは殿下の腕に抱え込まれるような格好で丸まっていた。
 移動した記憶はない。眠っている間に、暖かい方へ暖かい方へと寄っていったらしい。

「ミャ(え、いつの間に……!)」

 ミレイユは飛び起きようとした。
 けれど殿下の手が、そっと背に置かれる。

「動くな、落ちる」

 落ちる、というのは寝台から落ちるということだ。
 それはミレイユにとっても困るので、素直に動きを止めた。

 殿下がミレイユを見下ろしている。
 半分眠そうな顔で、それでもどこか——

(怒っていない)

 むしろ、少しだけ気が抜けたような、やわらかな顔だった。
『謹厳な御方』が朝一番に見せる顔は、夜の執務室でも見たことがないほど柔らかい。

「暖かいな。猫というのはこんなに暖かいものか」

 殿下がぽつりと言う。

「ニャア(当たり前です。猫ですから)」
「そうか」

 何がそうか、なのかはわからない。
 けれど殿下はそのまま、もう一度だけ目を閉じた。

(え、また寝るの?)

 殿下は王太子なのだから、朝から公務があるはずだ。
 いつもならもう起きていてもおかしくない時間だった。
 でも今日は——ミレイユが腕の中にいるせいで——起き上がる気をなくしているのかもしれない。

「ミャ?(下りましょうか?)」

 そう思ったのに、背中に置かれた手が温かくて、なんとなく今はこのままでいてもいい気がした。
 ミレイユは再び丸まる。
 すると殿下の寝息が、また少しずつ穏やかになっていった。
 つられてこちらも鼻先がゆるみ、気の抜けた音が漏れる。

「スピスピスピ……(こういう顔もするんだ……この人)」

 令嬢だった頃に想像していた『謹厳な御方』は、今目の前にいる人とずいぶん違う。
 たしかに公の場では隙がなく、判断は速く、言葉は正確だ。
 でも、朝一番に猫を腕の中へ抱えたまま、二度寝しようとするこの人は——

(私が人間だったら、どんな話をしていたかな)

 本の話。
 庭の花の話。
 夜の庭に出る星の話。
 変身魔法の本を一緒に読んだみたいな、ああいう静かな時間の話。

(……どうせなら、ちゃんと会いたかった)

 もう何度目かわからない、その思いが胸をよぎる。
 けれど、すぐに打ち消した。
 感傷に浸っている場合ではない。まず元に戻ることが先だ。

(頑張らなければ)

 ミレイユはもう一度目を閉じながら、静かに決意を新たにした。

 それから『ベッドの端に乗せてもらう』は、ほとんど毎夜の習慣になった。
 クッションは形式上、まだそこに置かれている。
 けれど実際のところ、ミレイユは毎夜ベッドの端から始まり、朝になる頃には布団の中へ入り込み、殿下の腕の近くで眠っていた。

「またこちらに来ていた」

 朝、殿下が言う。
 困っているというより、確認するような口調で。

「ニャア(私もいつ入っているのかわからないんです)」
「そうか」

 このやり取りも、いつの間にか日課になった。

 侍従が朝食を持ってきたとき、殿下の腕の近くで丸まっているミレイユを見て、毎回のように感動した顔になるのも変わらない。
 そのたびに殿下が「報告するな」と釘を刺すのだが、
 侍従は「はい」と答えながら、明らかに誰かへ話していた。

(侍従は嘘がつけない人ね……)

 ミレイユはそれを、少し微笑ましく思った。