追い出された白猫姫は、王太子にお猫様として溺愛される

 王妃が来た翌日。
 ミレイユが窓辺でひなたぼっこをしていると、殿下の執務室に珍しい来客があった。

「アドリアン、少しよいか」

 低い声。年配の男性だ。
 執務室に入ってきた人物を見て、ミレイユはぴくりと耳を動かした。

 年齢は四十代後半ほど。
 王妃とよく似た落ち着いた雰囲気を持つが、こちらはより重厚な印象だった。
 銀灰色の髪に、深い灰緑の瞳。背筋は真っ直ぐで、立っているだけで部屋の空気が少し引き締まる。

「父上」
「ミャッ(父上……では、王様!?)」

 ミレイユは思わず、ぴんと毛を逆立てた。
 いや、逆立てたのは驚いたからであって、威嚇ではない。
 でも立ってしまったものは仕方ない。

(落ち着け。猫に礼儀はあるの?猫が国王に対して取るべき態度って何?そもそも猫に礼儀を求める国王はいるの?)

「噂の白猫はこれか」

 王様がミレイユを見る。
 その視線は鷹のように鋭く、何もかも見通してしまいそうな眼差しだった。
 ミレイユは思わず姿勢を正した。猫なので『正す』とは、背筋を伸ばして座ることだが。
 猫背なので、正しきれているかどうかは怪しい。

「……ふむ」

 王様がじっと見ている。

(見られてる……まずい?逃げた方がいい?)

 ミレイユは動かなかった。
 動けなかった、というより、動かない方がよい気がした。
 逃げれば追いかけられる。こういうときは、たぶん堂々としていた方がいい。

 堂々と。
 堂々と、と思っているのに、たぶん見た目は白いぬいぐるみがちんまり座っているだけである。

 しばらくの沈黙のあと、王様が静かに言った。

「来なさい」

 殿下が少し驚いた顔をした。
 王様が手を差し出している。

「ミャゥ?(殿下と同じ動作だ……)」

 ミレイユは一呼吸置いて、窓辺から降りた。
 そろそろと王様に近づき、差し出された手の前で止まる。
 王様の手は殿下より少し大きく、節が目立っていた。
 長年、執務と統治に使ってきた手なのだろう。

 ミレイユはその手の匂いをそっと嗅いだ。
 墨と紙と、外気の混じった落ち着いた匂いがする。
 嫌な感じはしない。

 次の瞬間、王様の手がゆっくり動いた。
 頭の上をひと撫でし、そのまま背中へ。
 強すぎず、弱すぎず、毛並みに沿った無駄のない撫で方だった。

「……賢い猫だ」

 王様が言う。
 先ほどより、声に少し温度が戻っていた。

「ピンクのリボンをつけているのか」
「私がつけました」
「アドリアン」
「はい」
「猫というのは、昔は王宮にいた。知っているか」
「はい」
「三代前、四代前……もっと前になる。王宮には常に猫がいた。鼠を防ぎ、書庫を守り、王族に寄り添っていた。不吉などというのは根も葉もない話で、数代前の王がたまたまそういう時期に猫を亡くしただけのことだ」

 王様が続ける。
 その声は静かだが、どこか懐かしむような響きがあった。

「私が幼い頃には、まだそれなりに猫がいた。宮廷で嫌がられるようになってから、いつの間にかいなくなってしまった。それが……残念だったな」

(残念だった)

 ミレイユは王様の手の下で、じっとしていた。
 王様はそのまま背中を何度か撫でる。
 その手つきは、実はかなり上手だった。
 強すぎず、弱すぎず、毛の流れに沿っていて、無駄がない。

(この人も……猫好きだ)
「アドリアンよ」
「はい」
「この猫は、しばらくここに置いておけ」
「はい」

 その返答は短かったが、殿下の声にはほんの少しだけ安堵が滲んだ気がした。
 気のせいかもしれない。けれど、気のせいではない気もする。

 王様が今度は、ミレイユの顎の下を指先でそっと撫でた。
 そこは少しずるい場所だった。
 喉の奥が勝手に震えて、音が漏れる。

「ミィ、と言うそうだな」
「ミャァ(はい)」
「いい名だ」

 その言い方は、ただ相槌を打ったのではなく、本当にそう思ってくれているように聞こえた。

 王様はやがて立ち上がり、執務室を出ていった。
 扉が閉まると、さっきまで張っていた空気がふっとほどける。

 殿下がミレイユを見た。
 ミレイユも、伸びをしながら殿下を見上げる。前足を伸ばして背を反らすと、リボンが少し揺れた。

「……ミィ。気に入られたようだ」

 殿下が言った。
 声は静かだったが、目元には何かやわらかいものがあった。
 少なくとも、悪い結果ではなかったらしい。

(王様も猫好きだったとは……)

 ミレイユは喉をごろごろと鳴らしながら、思った。

(この王宮、猫好きの巣窟だったんだ)

 そう思うと、ちょっとだけおかしい。
 猫は不吉だと言いながら、王妃も、王様も、そして殿下も、結局みんな猫に甘い。
 むしろ王宮の奥の方ほど、猫への態度がやさしいのではないだろうか。

 これは思っていた以上に、潜伏先として当たりかもしれない。
 いや、猫として馴染みすぎるのも問題なのだけれど。

 ミレイユはそう考えながら、もう一度だけ喉を鳴らした。