翌朝から、何かが変わった。
侍従がミレイユの食事を運んできたとき、後ろにもう一人ついてきていた。
厨房担当の若い料理人だ。少しそわそわした顔で、けれど妙に誇らしげでもある。
「お猫様のお食事を、私が特別に用意させていただきました」
そう言って差し出されたのは、魚のすり身と鶏のスープだった。
昨日までより、明らかに手が込んでいる。
「ニャァ(え、いつの間に)」
「殿下のご命令ではありませんが……お猫様のお食事が毎日同じでは、と思いまして。昨夜考えました」
料理人の目がきらきらしていた。
ここまで期待に満ちた目を向けられると、さすがに少したじろぐ。
ミレイユは戸惑いながらも、差し出された皿へ顔を寄せた。
「ニャッニャニャ!(美味しい……!)」
魚のすり身には、おそらく少しだけ乳が混ざっている。
温かくて、口当たりがやわらかい。
鶏のスープも薄味なのに旨みがしっかりあって、猫の舌にもわかるやさしい味だった。
干し魚を齧っていた一週間前とは、まさに雲泥の差である。
「お口に合いましたか!」
料理人が身を乗り出す。
ミレイユは思わず、ごろごろと喉を鳴らした。
猫の体は、満足したときに本当に勝手に音が出る。
「よかった!では明日は白身魚のムースを」
「ミャァ(え、ムースまで作ってくれるの)」
どうやら、ただの一食では終わらないらしい。
こうして、厨房にも『お猫様ファン』が誕生した。
その日の昼。
殿下が午前の謁見から戻ってくると、執務室の前の廊下に侍女が三人立っていた。
「何をしている」
「あの……お猫様に、ご挨拶をと思いまして」
三人のうち一人が、緊張した面持ちで言う。
十代後半くらいの侍女たちで、手には小さな花束を持っていた。
「ミィに花を持ってきたのか」
「春の花は猫に有害なものも多いので、調べまして、ラベンダーにいたしました」
「無理強いしないなら構わない」
殿下が少しのあいだ侍女たちを見たあと、入室を許す。
三人がそろって執務室へ入ってくる。
ミレイユはソファの上から、その様子をじっと観察した。
「お猫様……!」
侍女の一人が小声で叫んだ。
「白くて……ピンクのリボンで……!なんと可愛らしい……!」
「肉球まで、可愛いピンク色!」
「ミャァ(ご挨拶はラベンダーかしら。猫への配慮があるのは嬉しいけど)」
差し出された花束から、やわらかい香りがした。
強すぎず、鼻に痛くない。ちゃんと調べてきたというのは本当らしい。
ミレイユはソファからゆっくり立ち上がり、端を歩いて侍女たちのほうへ向かった。
急に駆け寄ると驚かせる気がして、少しだけ慎重になる。
「あっ、来てくれた……!」
「ミャー(みんな、猫が好きなのかな)」
侍女たちが小声でざわめく。
ミレイユは三人の前で止まり、順番に顔を見上げた。
緊張した顔、嬉しそうな顔、今にも泣きそうな顔。
いや——それだけではないのかもしれない。
『猫は不吉』という宮廷の空気の中で、殿下に拾われ、しかもリボンまでつけてもらっている白猫。
そのこと自体が、何か特別なものとして映っているのだろう。
ミレイユは侍女たちの前に座り、ゆっくりまばたきをした。
すると三人が一斉に、胸を押さえるみたいな顔になる。
「いま……まばたきを……」
「こちらにご挨拶を……?」
「なんてお利口なの……」
(……まあ、悪い気はしない……かもしれない)
少なくとも、箒で追い立てられていた頃よりは、ずっといい。
そう思いながら、ミレイユはもう一度だけ、ゆっくりと目を細めた。
その日の夕方、ミレイユはピンクのリボンをつけたまま、ソファの上で丸くなっていた。
猫というのは、どうしてこんなに眠いのだろう。
元に戻る方法を調べないといけないのに、気づけば一日の半分以上を寝て過ごしてしまう。
暖かい場所にいると、なおさら抗えない。
扉をノックする音がして、見知らぬ女性が入ってきた。
ミレイユは顔を上げる。四十代ほどの、品のある女性だった。
落ち着いた紫色のドレスをまとい、白い髪を上品にまとめている。
歩き方ひとつとっても無駄がなく、部屋の空気が少しだけ改まった気がした。
侍女ではない。
服装もその佇まいには、侍女たちとは違う重みがある。
(誰だろう)」
「母上」
「ミャッ!?(……王妃様!?)」
ミレイユは飛び起きた。
いや、猫なので飛び起きるといっても、ぴょこんと座り直したくらいなのだが、気分としては完全に飛び上がっている。
王妃陛下。王太子の母親。この国の王妃。
(どうしよう、逃げた方がいい?でも逃げたら失礼?そもそも礼の仕方がわからない。カーテシーもできない。立って頭を下げるべき?でも猫の頭はどこ判定なの?前足?)
混乱しているうちに、王妃が部屋へ入ってきた。
「聞きましたよ、アドリアン。白猫を保護したというのは本当のこと?」
「はい」
「見せてちょうだい」
殿下がミレイユへ視線を向ける。
逃げなくてもいい、と言われた気がして、ミレイユはソファの上から王妃を見上げた。
王妃が近づいてきた。
その顔を見ると、先ほどの品のある印象はそのままに、目にはあたたかい光がある。
「まあ……本当に白い子ね。真っ白」
王妃がしゃがんだ。
殿下と同じように、ちゃんとミレイユと目の高さを合わせる。
「ピンクのリボンをつけているの?可愛いわね。誰が?」
「私です」
殿下が答えると、王妃が少し驚いた顔になり、それからふっと微笑んだ。
「あなたが自分でリボンを選んで、猫に結んであげたの」
「はあ……まあ」
「ふふ」
(あ、この親子、仲がいいんだ)
王妃が楽しそうに笑う。殿下がなんとも言えない顔をした。
殿下が『謹厳な御方』としてしか知られていないのは、公の場でそれ以外を見せないからなのだろう。
王妃の前では、ほんの少しだけ表情が違う。
「名付けたと聞きましたよ」
「はい。ミィと」
「不吉の逆、吉兆のような響きでいいわね」
王妃がミレイユを見た。
「いい名前だわ」
ミレイユはゆっくりとまばたきをした。
王妃の目が、やわらかく細くなる。
「……賢そうな目をしているのね」
「はい、賢いんです。言葉がわかっているように見えます」
「猫はそういうものよ」
王妃がそう言いながら、そっと手を差し出した。
(どうぞ)
ミレイユはその手の匂いを確かめるように、鼻先を近づけた。
香水はごく薄く、やわらかい花の匂いがする。
嫌な感じはしない。むしろ、落ち着く香りだった。
王妃が、ほう、と小さく息をつく。
それからやさしい手つきで、ミレイユの頭を撫でた。
指先は慣れていて、耳のつけ根を避けるあたりが絶妙だ。
嫌がらせない撫で方を知っている人の手だった。
「可愛い子ね……」
(王妃様も……猫が好きなのかな)
その声は、公式の場で発する王妃の声とはまるで違っていた。
肩の力が抜けた、素の声だ。
「母上も」
「え?」
「猫がお好きなのでしょう」
殿下がそう言った。
王妃が少し照れたように笑う。
年相応のやわらかい表情で、その一瞬だけ、王妃ではなくただの猫好きの女性に見えた。
「バレてしまったかしら。実は昔から好きなのよ。でも……ね」
「不吉と言われているから」
「そう。だから嬉しいのよ、この子が来てくれて。宮廷でも、こういう声があってもいいと思っていたの。猫は優雅で賢くて、人をよく見ている。不吉なわけがないわ」
王妃が改めてミレイユを見る。
ミレイユもまた、王妃を見た。
(素敵な方だ)
「しばらく、ここにいてちょうだい、ミィ」
王妃が言った。
命令ではなく、お願いのような、ひどく穏やかな言い方だった。
ミレイユは静かに、ゆっくりとまばたきをする。
猫なりの返事のつもりで。
その仕草を見た王妃の口元が、どこか祈るように、またふっと綻んだ。
「ミャァ(もちろんです。どこへも行きません——少なくとも今は)」
侍従がミレイユの食事を運んできたとき、後ろにもう一人ついてきていた。
厨房担当の若い料理人だ。少しそわそわした顔で、けれど妙に誇らしげでもある。
「お猫様のお食事を、私が特別に用意させていただきました」
そう言って差し出されたのは、魚のすり身と鶏のスープだった。
昨日までより、明らかに手が込んでいる。
「ニャァ(え、いつの間に)」
「殿下のご命令ではありませんが……お猫様のお食事が毎日同じでは、と思いまして。昨夜考えました」
料理人の目がきらきらしていた。
ここまで期待に満ちた目を向けられると、さすがに少したじろぐ。
ミレイユは戸惑いながらも、差し出された皿へ顔を寄せた。
「ニャッニャニャ!(美味しい……!)」
魚のすり身には、おそらく少しだけ乳が混ざっている。
温かくて、口当たりがやわらかい。
鶏のスープも薄味なのに旨みがしっかりあって、猫の舌にもわかるやさしい味だった。
干し魚を齧っていた一週間前とは、まさに雲泥の差である。
「お口に合いましたか!」
料理人が身を乗り出す。
ミレイユは思わず、ごろごろと喉を鳴らした。
猫の体は、満足したときに本当に勝手に音が出る。
「よかった!では明日は白身魚のムースを」
「ミャァ(え、ムースまで作ってくれるの)」
どうやら、ただの一食では終わらないらしい。
こうして、厨房にも『お猫様ファン』が誕生した。
その日の昼。
殿下が午前の謁見から戻ってくると、執務室の前の廊下に侍女が三人立っていた。
「何をしている」
「あの……お猫様に、ご挨拶をと思いまして」
三人のうち一人が、緊張した面持ちで言う。
十代後半くらいの侍女たちで、手には小さな花束を持っていた。
「ミィに花を持ってきたのか」
「春の花は猫に有害なものも多いので、調べまして、ラベンダーにいたしました」
「無理強いしないなら構わない」
殿下が少しのあいだ侍女たちを見たあと、入室を許す。
三人がそろって執務室へ入ってくる。
ミレイユはソファの上から、その様子をじっと観察した。
「お猫様……!」
侍女の一人が小声で叫んだ。
「白くて……ピンクのリボンで……!なんと可愛らしい……!」
「肉球まで、可愛いピンク色!」
「ミャァ(ご挨拶はラベンダーかしら。猫への配慮があるのは嬉しいけど)」
差し出された花束から、やわらかい香りがした。
強すぎず、鼻に痛くない。ちゃんと調べてきたというのは本当らしい。
ミレイユはソファからゆっくり立ち上がり、端を歩いて侍女たちのほうへ向かった。
急に駆け寄ると驚かせる気がして、少しだけ慎重になる。
「あっ、来てくれた……!」
「ミャー(みんな、猫が好きなのかな)」
侍女たちが小声でざわめく。
ミレイユは三人の前で止まり、順番に顔を見上げた。
緊張した顔、嬉しそうな顔、今にも泣きそうな顔。
いや——それだけではないのかもしれない。
『猫は不吉』という宮廷の空気の中で、殿下に拾われ、しかもリボンまでつけてもらっている白猫。
そのこと自体が、何か特別なものとして映っているのだろう。
ミレイユは侍女たちの前に座り、ゆっくりまばたきをした。
すると三人が一斉に、胸を押さえるみたいな顔になる。
「いま……まばたきを……」
「こちらにご挨拶を……?」
「なんてお利口なの……」
(……まあ、悪い気はしない……かもしれない)
少なくとも、箒で追い立てられていた頃よりは、ずっといい。
そう思いながら、ミレイユはもう一度だけ、ゆっくりと目を細めた。
その日の夕方、ミレイユはピンクのリボンをつけたまま、ソファの上で丸くなっていた。
猫というのは、どうしてこんなに眠いのだろう。
元に戻る方法を調べないといけないのに、気づけば一日の半分以上を寝て過ごしてしまう。
暖かい場所にいると、なおさら抗えない。
扉をノックする音がして、見知らぬ女性が入ってきた。
ミレイユは顔を上げる。四十代ほどの、品のある女性だった。
落ち着いた紫色のドレスをまとい、白い髪を上品にまとめている。
歩き方ひとつとっても無駄がなく、部屋の空気が少しだけ改まった気がした。
侍女ではない。
服装もその佇まいには、侍女たちとは違う重みがある。
(誰だろう)」
「母上」
「ミャッ!?(……王妃様!?)」
ミレイユは飛び起きた。
いや、猫なので飛び起きるといっても、ぴょこんと座り直したくらいなのだが、気分としては完全に飛び上がっている。
王妃陛下。王太子の母親。この国の王妃。
(どうしよう、逃げた方がいい?でも逃げたら失礼?そもそも礼の仕方がわからない。カーテシーもできない。立って頭を下げるべき?でも猫の頭はどこ判定なの?前足?)
混乱しているうちに、王妃が部屋へ入ってきた。
「聞きましたよ、アドリアン。白猫を保護したというのは本当のこと?」
「はい」
「見せてちょうだい」
殿下がミレイユへ視線を向ける。
逃げなくてもいい、と言われた気がして、ミレイユはソファの上から王妃を見上げた。
王妃が近づいてきた。
その顔を見ると、先ほどの品のある印象はそのままに、目にはあたたかい光がある。
「まあ……本当に白い子ね。真っ白」
王妃がしゃがんだ。
殿下と同じように、ちゃんとミレイユと目の高さを合わせる。
「ピンクのリボンをつけているの?可愛いわね。誰が?」
「私です」
殿下が答えると、王妃が少し驚いた顔になり、それからふっと微笑んだ。
「あなたが自分でリボンを選んで、猫に結んであげたの」
「はあ……まあ」
「ふふ」
(あ、この親子、仲がいいんだ)
王妃が楽しそうに笑う。殿下がなんとも言えない顔をした。
殿下が『謹厳な御方』としてしか知られていないのは、公の場でそれ以外を見せないからなのだろう。
王妃の前では、ほんの少しだけ表情が違う。
「名付けたと聞きましたよ」
「はい。ミィと」
「不吉の逆、吉兆のような響きでいいわね」
王妃がミレイユを見た。
「いい名前だわ」
ミレイユはゆっくりとまばたきをした。
王妃の目が、やわらかく細くなる。
「……賢そうな目をしているのね」
「はい、賢いんです。言葉がわかっているように見えます」
「猫はそういうものよ」
王妃がそう言いながら、そっと手を差し出した。
(どうぞ)
ミレイユはその手の匂いを確かめるように、鼻先を近づけた。
香水はごく薄く、やわらかい花の匂いがする。
嫌な感じはしない。むしろ、落ち着く香りだった。
王妃が、ほう、と小さく息をつく。
それからやさしい手つきで、ミレイユの頭を撫でた。
指先は慣れていて、耳のつけ根を避けるあたりが絶妙だ。
嫌がらせない撫で方を知っている人の手だった。
「可愛い子ね……」
(王妃様も……猫が好きなのかな)
その声は、公式の場で発する王妃の声とはまるで違っていた。
肩の力が抜けた、素の声だ。
「母上も」
「え?」
「猫がお好きなのでしょう」
殿下がそう言った。
王妃が少し照れたように笑う。
年相応のやわらかい表情で、その一瞬だけ、王妃ではなくただの猫好きの女性に見えた。
「バレてしまったかしら。実は昔から好きなのよ。でも……ね」
「不吉と言われているから」
「そう。だから嬉しいのよ、この子が来てくれて。宮廷でも、こういう声があってもいいと思っていたの。猫は優雅で賢くて、人をよく見ている。不吉なわけがないわ」
王妃が改めてミレイユを見る。
ミレイユもまた、王妃を見た。
(素敵な方だ)
「しばらく、ここにいてちょうだい、ミィ」
王妃が言った。
命令ではなく、お願いのような、ひどく穏やかな言い方だった。
ミレイユは静かに、ゆっくりとまばたきをする。
猫なりの返事のつもりで。
その仕草を見た王妃の口元が、どこか祈るように、またふっと綻んだ。
「ミャァ(もちろんです。どこへも行きません——少なくとも今は)」



