「うわ、ちょっと……っ!?」
彼女の小さな両手が、仕立ての良いスーツのジャケットを、引きちぎらんばかりの力でぎゅーーっと握りしめる。
───指先が白くなるほど強く、強く。
「……花梨ちゃん? どうしたの、急に。幽霊でも出た?」
いつものように、俺らの間の”お決まりの距離”を保つための、軽い冗談を口にしようとした。
───だけど。
胸元から聞こえてきたのは、言葉ではなく、引き切った糸のような、小さくて痛々しい鼻をすする音で。
「……ち、違います……幽霊じゃなくて……っ」
彼女が、顔を上げた。
涙で濡れた長い睫毛が夕暮れの行灯のように頼りなく揺れて、
その大きな瞳から、大粒の涙がポロポロと、真珠みたいに溢れ落ちる。
───胸元に、彼女の涙がじんわりと温かいシミを作っていくのが分かった。
「紺さん、ずっといなくて……。私、またどこにも行き場がなくなっちゃったんじゃないかって……。すっごく、すっごく……寂しかったんです……っ!」
───寂しかった。
その、世界の何よりも混じり気のないストレートな一言が。
俺の鼓膜を、そして防壁だらけだった胸の奥を激しく貫いた。
鼓動が、一瞬だけ完全に静止する。
次の瞬間、ドクン、と。
人生で聞いたことがないほど獰猛で大きな音が、胸の内で跳ね上がる。
ぶわっと、耳の奥まで血が駆け巡る音がした。
一気に、顔が熱くなる。
……いつもなら、「ふふ、可愛いこと言うね」って苦笑いしてみせて。
彼女の頭をぽんぽんと叩いて、大人の余裕でいなせるはずだった。
───それが、俺たちの”お試しの恋”のルールだった。
……なのに、指先が冷たく痺れるくらいに、頭の中が真っ白な光で塗りつぶされていく。
自分の顔が、今、制御不能なほど真っ赤に染まっているのが、恐ろしいくらいに自覚できた。


