定刻の鐘と、ケーキと、王太子と~前世は検察事務官。断罪を止めたら、恋人役のはずが本物の婚約者になりました~

 夜会から一週間が過ぎた。

 王宮は、ある程度の落ち着きを取り戻していた。
 第二王子ジュリアン殿下は謹慎が続いており、ヴァンドール公爵家は婚約を白紙に戻す方向で動いている——そんな噂が、あちこちで静かに流れている。
 表向きは平穏だ。けれど、その平穏の下でいろいろなものがまだ燻っているのは、なんとなく空気でわかった。

 私の日常は、表向きには何も変わらなかった。
 いつも通り北棟第七書記官室に出勤し、いつも通り写本と数字照合をこなし、いつも通り定時の鐘を聞いて帰宅する。

 ただ、ひとつだけ変わったことがある。

 時々、リシャール王太子殿下から書類が届くようになったのだ。

 正確には、殿下の側近と思しき人物が「殿下からのご依頼の資料です」と小さな封筒を持ってきて、それが私の机の端にそっと積まれていく。
 最初のうちは、同僚たちもさすがに驚いていた。
 けれど数日も経つと、人間というのは不思議なもので、だんだん慣れてくる。
 慣れていいのかどうかはさておき、王宮勤めというのは案外そういう場所だ。

 マリウスなどは「ベルラン書記官は特殊技能持ちですから、殿下の目に留まったのでしょう」と勝手に納得してくれた。
 特殊技能というのが前世記憶由来の書類読解力のことだと説明する気はないが、まあ、間違ってはいない。

 依頼の内容は——一言で言えば、『怪しい書類の確認』だった。
 殿下が個人的に集めてきた、ドレイク宰相に関連する可能性のある記録の断片。
 物資の移動記録、会計帳簿の写し、往復書簡の控え。
 それらを私が精査し、不自然な点があれば報告する。

 作業自体は、そこまで難しくない。
 前世で培った感覚と、三年間の書記官仕事の経験を合わせれば、書類の不自然さはそれなりに見つかる。
 ただ、それが仕事の一部としてじわじわ組み込まれてくると、少しばかり忙しくなる。

「ベルラン書記官、定時過ぎてますよ」

 マリウスに声をかけられたのは、夜会から十日後の午後のことだった。

「……ちょっと待ってください。もう少しで」
「いいんですか、帰らなくて?」
「今日は……今日だけは少し残ります」
「珍しいですね」

 マリウスは心底驚いたような顔をしてから、「お気をつけて」と言い残して帰っていった。

 私は書類に向かったまま、少し苛立っていた。
 定時に帰りたいのに帰れない。それだけで、かなり不機嫌になる。
 でも、今日の書類は途中で止めるわけにいかなかった。

 ドレイク宰相に関連すると思われる、ある特定の物資調達記録。
 その中に、繰り返し同じ商人の名前が出てきていた。
 取引量は異様に大きい。しかも記録の一部が欠損している。

 意図的な欠損だ。
 誰かが削除したのか、あるいは差し替えたのか。
 どちらにしても、これは重要な手がかりになるかもしれない。

「……やっぱり」

 前世の記憶が、じわじわと刺激されていく。
 証拠の隠滅。書類の改竄。
 こういう手口には、妙に似たパターンがある。

 私は書類の端に、見つけた不自然な点を書き留めていった。

「おや、まだいたのか」

 不意に扉が開き、声がした。
 ぎくりとして顔を上げると、王太子殿下が護衛もつけず、書記官室の扉口に立っていた。
 こんな時間に、しかもこんな場所へ本人が来るとは思っていなかったので、一瞬だけ頭が真っ白になる。

「……殿下、なぜこちらに」
「通りかかったら灯りが見えた。残業か」
「……はい。少し気になるところがありましたので」
「どこだ」

 私は書き留めていたメモを差し出した。
 殿下は受け取り、目を通す。
 しばらくして、低く唸った。

「……この商人の名前、把握している。ドレイクの取引先として以前から目をつけていた」
「かなり大きな取引が繰り返されています。しかも記録の一部が欠損している。誰かが後から手を加えた可能性があります」
「お前の確認で、今どこまで追えた」
「この商人の名前が出てくる取引記録は、過去五年間で少なくとも七件あります。総額を計算すると、王国の年間軍事費の三割に相当します」
「三割」
「横流し、あるいは架空取引の可能性が高いと思います」

 口にした瞬間、自分でもその大きさに少しだけぞっとした。
 数字は嘘をつかない。だからこそ、そこに出た異常さはごまかしがきかない。

 殿下は静かにメモを読み返している。
 私は反射的にメガネの縁に触れ、それからそっと殿下の顔を見た。

 真剣な目をしていた。
 王子らしい、整った横顔。線のはっきりした鼻筋。伏せた睫毛の影まできれいで、こういう人を見て育ちの良さというのかもしれない、と思う。
 それなりに、と言っては失礼だが、有能な人物だとも思う。
 少なくとも、弟王子のように、捏造書類で婚約者を切り捨てるような人ではない。

 なぜ宰相の不正を調べているのか、その動機もある程度はわかっていた。

 昨日、殿下の側近から耳打ちされた情報がある。
 ドレイク宰相は自分の娘を王太子に婚約させようとしており、そのための根回しを長年続けているらしい、という話だった。

 つまり、これは単なる正義の話ではない。
 殿下にとっては、自分の婚約問題を回避するための戦いでもあるのだ。

 まあ、私には関係ないが。

「今日はもう帰れ」
「でも書類が」
「続きは明日でいい。お前が残業するのは私の本意ではない」
「……ケーキが買えないんですよね」
「明日、差し入れる」

 殿下はごく自然にそう言った。

「殿下がケーキを差し入れてくださるのは二回目になりますが」
「それが何か」
「いえ、なんでもないです。では今日はこれで失礼します」

 私は書類を整え、机の端にきちんと寄せてから立ち上がった。
 すると、すでに殿下は扉を開けて待っていた。

「送る」
「え、いえ、そんな」
「一人で夜の王宮を歩かせるのは危険だ。ドレイクが私の動きに気づき始めている可能性がある」
「……それは確かに怖いですね」

 実際のところ、ドレイク宰相が私という存在に気づいているかどうかはわからない。
 でも、可能性はゼロではない。

「ありがとうございます」

 私たちは王宮の廊下を並んで歩いた。
 夜の廊下は静かだ。日中の慌ただしさが嘘みたいに、人の気配がない。
 壁の燭台が、長い廊下を橙色に照らしている。
 磨き上げられた床石に灯りが淡く映って、その上を私たちの影だけがゆっくり揺れていた。

「一つ聞いていいか」

 殿下が言った。

「はい」
「気乗りしない様子だったが、本当にケーキだけのために協力してくれるのか」

 私は少し考えた。
 それから、正直に続ける。

「ドレイク宰相の不正を放っておけば、また誰かが理不尽な目に遭うんだろうなと思いまして。エリーン令嬢の件も、宰相が糸を引いていたなら。次も、また誰かが」
「……お前は、そういう人間か」
「よくわかりません。普段は関わらないようにしているんですが、今回は少し、ついていってみようかなという気になりました」
「なぜ」
「ケーキにつられました」

 殿下は短く笑った。
 初めて聞く、本当の笑い声だった。

 低くて、思ったより柔らかい。
 その声が夜の廊下に落ちて、すぐに静けさへ溶けていく。
 私はなぜだか、少しだけほっとした。

「……正直な奴だ」
「嘘をついても仕方がないので」
「昨夜も同じことを言っていたな」
「同じことを言い続けられるのは長所だと思っています」

 殿下はまた笑った。
 王太子という立場の人は、もっと隙なく冷たく笑うものだと、勝手に思っていた。

 王宮の正門が見えてきた。

「ここまで来れば大丈夫です。ありがとうございました」
「ああ」

 私は深く礼をして、正門を出た。
 けれど何となく振り返ると、殿下はまだそこに立っていた。
 暗い門の中で、こちらをなんとなく見ている。

「……おやすみなさい、殿下」
「おやすみ、ベルラン書記官」

 帰路についた。
 今日はケーキが買えなかった。

 でも、明日は買えるだろう。
 人生はそういうものだ。
 今日買えなくても、明日買えればだいたい何とかなる。
 少なくとも私は、そういう理屈で今までやってきた。

 家に帰り、温めたスープを飲む。
 湯気で曇ったレンズをさっと拭いながら、今日の書類整理の内容を頭の中でおさらいした。

 前世の記憶が、少しずつ今の日常に溶け込んできている。
 書記官としての仕事に、検察事務官としての経験が加わる感覚。
 書類の読み方。情報の突き合わせ。不自然な点への嗅覚。

 もともと文字の読み書きは得意だった。
 でも、こうして使える前世知識があると、書類仕事の精度がさらに上がる。
 自分でも、少し面白いと思ってしまうくらいには。

 それに——。

 なんとなく、生き甲斐が増えた気がしていた。

 定時退勤とケーキだけが目標だった毎日に、少しだけ別の目標が加わった感じだ。
 ドレイク宰相の不正を暴いて、王太子殿下の婚約問題を解決して、それが終わったら、またいつも通りの日常に戻る。

 それだけ。
 面白い仕事を少し手伝って、ケーキをもらって終わり。

 ……そのはずだった。

 その時点での私は、まだ本気でそう思っていた。
 殿下がにこりと笑った時、少しだけ心拍数が上がったのは緊張のせいだと思っていたし、
 正門で「おやすみ」を言われた時、なんとなく名前を呼ばれたかったなと思ったのも、ただの気のせいだと思っていた。

 私はそういう方向への感情の動きに、かなり鈍い人間だったのだ。
 前世でも三年間浮気され続けて気づかなかった実績がある。

 でも、今はまだ知らない。

 ただ、スープを飲み終えて、明日買うケーキの種類を考えながら、私は眠りについた。
 春の夜風が、窓の外を静かに吹いていた。