緊張する……
本当に私がこんな場所にいていいんだろうか?
掘りごたつ式の隅にちょこんと座り、膝を揃える。
目の前には、今をときめく人気アマチュアバンドの5人組。
居酒屋特有の喧騒が、この私の疎外感を少しだけ和らげてくれる。
「それでは、本日のライブ成功を祝いまして」
バンドリーダーの隆臣さんが、ビールの入ったグラスを軽く持ち上げ音頭を取る。
私とバンドメンバーはそれに倣いグラスを持った。
今日の演奏も良かったよ!
ビールグラスを傾けて、カチンと合わせる。
「悪いな、打ち上げに付き合わせて」
隣に座っていた彼──仁くんが覗き込むようにしてこちらを見る。
私は首を横に振った。
「ううん」
誘われた時は驚いたけれど。
私は、バンドメンバーじゃない。
ベースの仁くんと付き合っているから、なぜかこの席にいるだけだ。
肩を縮こまらせて、舐めるようにビールをちびちび口に運ぶ。
そして。
ビールを飲むふりをして、メンバーたちのグラスを持つ手を、つい盗み見てしまう。
ねえ、知らないでしょう?
私は曲よりも、あなたの手に注目していたことを。
ライブが始まると、私の目はいつも彼の手を追いかける。
ゴツゴツしてるけど、指がスラっと長くて。
流れるようにベースを奏でるところを想像すると、それだけで胸がときめいてしまう。
そんな妄想を頭の中で繰り広げていると、ふいに耳元で声がした。
「なぁ、話聞いてる?」
ハッとして、慌てて頭の中の妄想を追い払う。
「う、うん、聞いてるよ」
やばい。聞いてなかった。
どうごまかそうと思っていると、向かい側から声が飛んできた。
「もー、ジンったら。真純さん困ってんじゃーん」
バンドメンバーの紅一点、キーボードのケイさんが助け舟を出してくれた。
ケイさんはすでにお酒が進み、ほんのり赤い顔をしてくすくす笑っている。
指が長くて綺麗で、つい彼女の手にも目がいってしまう。
「でもほんと、ジンみたいなぶっきらぼうなやつに彼女がいるなんて、この目で見るまで信じられなかった」
長い髪をかき上げながら、ケイさんは面白そうに私と仁くんを見比べる。
「うっせ」
仁くんは、照れ隠しみたいにビールをあおった。
「ジンのどこが好きなの?」
唐突な質問に、私はビールを吹き出しそうになった。
仁くんは実際に吹いてた。
「えっと……」
ケイさんの一言を皮切りに、メンバーのみんなは興味津々でこちらをじっと見る。
返答に困る。もちろん、好きなところはたくさんあるけれど。
その中でも、手がいちばん好きです、なんて。
恥ずかしくて言えない。
他の部分を言っても、それはそれで盛大なのろけになりそうで、言えない。
「あーあー! こんなの答えなくていいから!」
顔を真っ赤にして、耐えきれなくなった仁くんが私とケイさんの間に入る。
その様子を見て、ケイさんをはじめメンバーのみんなが、ニヨニヨと笑う。
……ああ。
仁くんに誘われた時は、彼女だって紹介してもらえることが嬉しくて、ついすぐにOKしちゃったけど。こんな風に囃し立てられるなんて思ってなかった。
「す、すみません! ちょっとお手洗い!」
逃げるように席を立つと、ケイさんと隆臣さんの声が耳に入った。
「あーん、逃げられたぁ」
「おまえは絡みすぎだ」
ちらりと振り向くと、みんな和気藹々としている。
隆臣さんとケイさんは恋人同士らしく、酔いで頬を染めながら、みんなの前でも平気でボディタッチしたりしてる。人目も気にせず自然にスキンシップを交わせる二人が、少しだけ羨ましかった。私も、仁くんとあんなふうになれたらいいのに。
私たちは、お互い素直になれなくて、〝そういう〟関係も……まだ、だ。
恋人というより、つい憎まれ口を叩き合う相棒みたいな関係だから。
仁くんには悪いけど、早めに帰らせてもらおうかな……
そう思っていると、
「真純」
名前を呼ばれるのと同時に、大きな手に腕を掴まれた。
驚いて振り返ると、少しだけ気まずそうな顔をした仁くんが立っていた。
「黙って帰るなよ」
「か、帰らないよ」
「じゃあ、なんで」
ぶっきらぼうな口調だけど、掴んだ手は離そうとしない。
そういえば、お手洗いに向かうつもりだったのに。
辺りを見回すと、無意識に通り過ぎてしまっていたらしい。
少しの間、沈黙が流れる。
「……あの、さ」
仁くんは頭をぽりぽりとかきながら、視線を泳がせた。
「このまま抜けねぇ?」
「え?」
それって。
それって。
二人でどこかへ行こうってこと?
仁くんは、メンバーの方をちらりと見る。
私も視線を向けると、特にこちらを気にする様子もなく盛り上がっている。
「……な?」
自分たちがいなくても平気だという風に言って、腕を掴んでいた手が、滑るように私の手へ移る。指と指が、絡む。
うわ……。
恋人同士なら当たり前なのかもしれない。
でも、仁くんがこんな風に手をつないでくるのは珍しくて。
ドキドキしすぎて、胸が詰まる。
顔、赤いし、きっと仁くんも酔っているんだ。
嬉しくてたまらなくて、にやけそうになる口元を必死で我慢する。
結局私たちは、手をつないだまま居酒屋を出て歩き出した。
「どこ行く?」
並んで夜道を歩く。
周りの人たちは流れる景色のように、忙しなくすれ違う。
けれど私たちは、そんな時の流れに逆らうように少しだけゆっくり歩いた。
「別に、どこでも……」
言ってから、ハッとした。
なんだか、投げやりな言い方だったんじゃないかなって。
仁くんと一緒なら、どこでもいいって意味なのに。
けれど、仁くんは特に気にしてる様子はなかった。
「……俺んち、くる?」
少しだけ、つないだ手にきゅっと力が入った。
私は、ぽかんと口を開けて固まってしまった。
「あ、いや。深い意味はなくてだな……。飲み直そうって、ただ、そんだけで……」
「なんでもいいよ……」
手を握り返したけど、仁くんは黙ってしまった。
……違う。
『理由なんて、なんでもいい』っていう意味だったのに。
また言い方が悪かった。
ああ、なんで私、こんな言い方しかできないんだろう。
お互い仕事が忙しくて、仁くんの部屋に来るのは久しぶりだ。
玄関の前でパッと手が離れて、途端に心まで寒くなるような気がした。
鍵を開けて中に入ると、うっすらとメンソールの匂い。
仁くんの、いつもの匂い。
彼は肩にかけていたベースを部屋の隅にあるスタンドへ戻すと、そのままキッチンへ向かった。
「テキトーに座ってて」
言われて、ソファの隅の方にちょこんと座る。
……いや、これだとさっきの居酒屋と同じか。
少しだけ中央寄りに座り直す。
冷蔵庫を開ける音がして、ビールとおつまみを抱えて仁くんが戻ってきた。
ローテーブルに缶ビールとおつまみを並べると、仁くんは私の隣へどさっと腰を下ろす。
肩が触れそうなくらいの距離。
居酒屋ではあんなに騒がしかったのに、心臓の音が聞こえてしまいそうなくらい静かだ。
「……じゃ、飲み直すか」
「……うん……」
缶を軽く合わせる。
変なの。二人きりの時なんて、今までもあったのに。
今日はやけにドキドキする。やっぱり、さっきの恋人つなぎのせい?
プシュッと炭酸の弾ける音が重なり、冷たいビールが喉を滑り落ちていく。
他愛もない話をしながら缶を傾けるたび、私たちはゆっくりと酔いを深めていった。
もう一度、恋人つなぎ、したいな……なんて思いながら、瞼の重くなった目で仁くんの手を見つめる。
「おまえさっきさ」
仁くんが、急に口を開いた。
こっちをじっと睨むように見てくる顔が、さっきよりも赤い。
「隆臣さんのこと見てただろ」
「……えっ?」
意外な質問に、酔いが覚めるほど驚いて目を見開いた。
一瞬だけ答えに迷ってしまう。
「ち、違うよ?」
たしかに隆臣さんの方は見てたけど。
でもそれは、彼の〝手〟を見ていただけであって。
なんなら、メンバー全員の手を見ていたわけで。
これだけは、はっきりと「違う」って言える。
けれど、隆臣さんの手を見ていたことに変わりはなくて、少しだけ挙動不審になってしまった。
すると、仁くんは、わかりやすく拗ねたようにソファに寝転がる。
「あーあ、やっぱおまえもかぁ〜。男の俺から見てもかっこいいもんなぁ〜」
ち、違うってば……!
慌てて身を乗り出す。
「だから……手を見てたの!」
「手ぇ?」
仁くんは寝転んだまま、視線だけをこちらに向けて言った。
「なんで?」
「な、なんでって……」
そんな真っ直ぐ聞かれると困る。
「綺麗な指だな〜、とか、指長いなぁ〜とか、ゴツゴツしてるなぁ〜とか、おっきい手だなぁ〜とか……」
熱くなっていく頬を、両手で覆って冷やす。
やだもう……なんでこんなこと言わされてるの。
「俺の手は?」
寝転んだまま、手のひらだけをヒラヒラさせる。
「え……」
胸がどきりと鳴る。
ライブに行くたびに、目で追ってしまうのは仁くんだった。
ピックを握る右手。
ネックの上を滑る左手。
曲はBGMになって背景に溶けていき、そうなると私はもう、仁くんの指しか目に入らない。
そんな恥ずかしいこと言えなくて。
でも、もしかしたら、今までそうやって素直に言えなかったから。
私たちは先に進めずにいた?
お互い不器用で、意地っ張りで、本音を隠して。
今なら、お酒の力を借りても、いいよね……?
「見てる……よ」
「へ、へえ、そうなんだ」
素直に答えたのが意外だったのか、仁くんは少しだけ目を逸らした。
「ベース弾いてる時の仁くんの手が、いちばん好きかも」
そう言うと、仁くんは体を起こして、こちらに寄ってくる。
「それって、他のヤツと比べてるってこと?」
「じ、仁くんの手の中でってこと」
彼のいろんな手の形を、いつだって、鮮明に思い出せる。
「そんなに見てるの?」
言いながら、私の手に自分の手を重ねてきて、指を絡める。
ピクリと体が反応した。
胸がいっぱいになって声が出なくて、かろうじて、こくんと頷く。
「……他には?」
「ビリヤードの──キュー、構えてるところとか」
「うん……」
仁くんも、照れているのかだんだん頬を染めていく。
ゆるむ口元を押さえて、視線をそらした。
「やば……ニヤけるのおさまんねぇ」
そんな顔されたら、こっちまで恥ずかしい。
「真純って、そんな性癖あったん?」
「性癖って……」
思わず苦笑する。
まあ、言われてみればそうか。
「あ、じゃあ……」
思い出したように言って、仁くんは私を抱き寄せる。
大きな手が、私の頭を撫でた。
「これは?」
ふわふわと温かい気持ちになる。
「……好き、かも」
「〝かも〟じゃないだろ〜?」
苦笑してた仁くんも、だんだん真剣な顔になってきて。
「真純……」
ゆっくりと顔が近づく気配に、私は自然と目を閉じる。
ちゅ、と音を立てて、唇が軽く触れ合った。
「もっと触ってい?」
「……いいよ」
仁くんは、意外そうに目を丸くして、今度は頬に触れて真正面からのキス。
ぶっきらぼうで、不器用で。
それでも私に触れる指先は、いつだってやさしい。
知ってるんだから。
でも、それを口にしたら照れてやめちゃいそうだから、言わない。
やがて私たちは、ソファの上へ倒れ込むように身を預けた。
見上げた先で、仁くんが照れたように笑う。
私の髪をそっと払った手が、そのまま肩へ滑り、服のボタンに触れる。
さっきまでベースを奏でていた、大きな手。
私の大好きな、その手。
耳元へ唇を寄せ、仁くんが悪戯っぽく囁いた。
「俺、もっとすごいフェチあるんだよね」
「な、なに……」
「……言わない」
そう言って、意地悪く笑ったかと思うと、
「でも、教えてやるよ」
言いながら、重なる唇。
さっきとは違う、少しだけ深くて長い口づけに、身体中が熱を帯びていく。
酔った勢いでだなんて、全然ロマンチックじゃないけれど。
でも、それが私たちらしい。
ああ……。私も相当、酔ってるな──
本当に私がこんな場所にいていいんだろうか?
掘りごたつ式の隅にちょこんと座り、膝を揃える。
目の前には、今をときめく人気アマチュアバンドの5人組。
居酒屋特有の喧騒が、この私の疎外感を少しだけ和らげてくれる。
「それでは、本日のライブ成功を祝いまして」
バンドリーダーの隆臣さんが、ビールの入ったグラスを軽く持ち上げ音頭を取る。
私とバンドメンバーはそれに倣いグラスを持った。
今日の演奏も良かったよ!
ビールグラスを傾けて、カチンと合わせる。
「悪いな、打ち上げに付き合わせて」
隣に座っていた彼──仁くんが覗き込むようにしてこちらを見る。
私は首を横に振った。
「ううん」
誘われた時は驚いたけれど。
私は、バンドメンバーじゃない。
ベースの仁くんと付き合っているから、なぜかこの席にいるだけだ。
肩を縮こまらせて、舐めるようにビールをちびちび口に運ぶ。
そして。
ビールを飲むふりをして、メンバーたちのグラスを持つ手を、つい盗み見てしまう。
ねえ、知らないでしょう?
私は曲よりも、あなたの手に注目していたことを。
ライブが始まると、私の目はいつも彼の手を追いかける。
ゴツゴツしてるけど、指がスラっと長くて。
流れるようにベースを奏でるところを想像すると、それだけで胸がときめいてしまう。
そんな妄想を頭の中で繰り広げていると、ふいに耳元で声がした。
「なぁ、話聞いてる?」
ハッとして、慌てて頭の中の妄想を追い払う。
「う、うん、聞いてるよ」
やばい。聞いてなかった。
どうごまかそうと思っていると、向かい側から声が飛んできた。
「もー、ジンったら。真純さん困ってんじゃーん」
バンドメンバーの紅一点、キーボードのケイさんが助け舟を出してくれた。
ケイさんはすでにお酒が進み、ほんのり赤い顔をしてくすくす笑っている。
指が長くて綺麗で、つい彼女の手にも目がいってしまう。
「でもほんと、ジンみたいなぶっきらぼうなやつに彼女がいるなんて、この目で見るまで信じられなかった」
長い髪をかき上げながら、ケイさんは面白そうに私と仁くんを見比べる。
「うっせ」
仁くんは、照れ隠しみたいにビールをあおった。
「ジンのどこが好きなの?」
唐突な質問に、私はビールを吹き出しそうになった。
仁くんは実際に吹いてた。
「えっと……」
ケイさんの一言を皮切りに、メンバーのみんなは興味津々でこちらをじっと見る。
返答に困る。もちろん、好きなところはたくさんあるけれど。
その中でも、手がいちばん好きです、なんて。
恥ずかしくて言えない。
他の部分を言っても、それはそれで盛大なのろけになりそうで、言えない。
「あーあー! こんなの答えなくていいから!」
顔を真っ赤にして、耐えきれなくなった仁くんが私とケイさんの間に入る。
その様子を見て、ケイさんをはじめメンバーのみんなが、ニヨニヨと笑う。
……ああ。
仁くんに誘われた時は、彼女だって紹介してもらえることが嬉しくて、ついすぐにOKしちゃったけど。こんな風に囃し立てられるなんて思ってなかった。
「す、すみません! ちょっとお手洗い!」
逃げるように席を立つと、ケイさんと隆臣さんの声が耳に入った。
「あーん、逃げられたぁ」
「おまえは絡みすぎだ」
ちらりと振り向くと、みんな和気藹々としている。
隆臣さんとケイさんは恋人同士らしく、酔いで頬を染めながら、みんなの前でも平気でボディタッチしたりしてる。人目も気にせず自然にスキンシップを交わせる二人が、少しだけ羨ましかった。私も、仁くんとあんなふうになれたらいいのに。
私たちは、お互い素直になれなくて、〝そういう〟関係も……まだ、だ。
恋人というより、つい憎まれ口を叩き合う相棒みたいな関係だから。
仁くんには悪いけど、早めに帰らせてもらおうかな……
そう思っていると、
「真純」
名前を呼ばれるのと同時に、大きな手に腕を掴まれた。
驚いて振り返ると、少しだけ気まずそうな顔をした仁くんが立っていた。
「黙って帰るなよ」
「か、帰らないよ」
「じゃあ、なんで」
ぶっきらぼうな口調だけど、掴んだ手は離そうとしない。
そういえば、お手洗いに向かうつもりだったのに。
辺りを見回すと、無意識に通り過ぎてしまっていたらしい。
少しの間、沈黙が流れる。
「……あの、さ」
仁くんは頭をぽりぽりとかきながら、視線を泳がせた。
「このまま抜けねぇ?」
「え?」
それって。
それって。
二人でどこかへ行こうってこと?
仁くんは、メンバーの方をちらりと見る。
私も視線を向けると、特にこちらを気にする様子もなく盛り上がっている。
「……な?」
自分たちがいなくても平気だという風に言って、腕を掴んでいた手が、滑るように私の手へ移る。指と指が、絡む。
うわ……。
恋人同士なら当たり前なのかもしれない。
でも、仁くんがこんな風に手をつないでくるのは珍しくて。
ドキドキしすぎて、胸が詰まる。
顔、赤いし、きっと仁くんも酔っているんだ。
嬉しくてたまらなくて、にやけそうになる口元を必死で我慢する。
結局私たちは、手をつないだまま居酒屋を出て歩き出した。
「どこ行く?」
並んで夜道を歩く。
周りの人たちは流れる景色のように、忙しなくすれ違う。
けれど私たちは、そんな時の流れに逆らうように少しだけゆっくり歩いた。
「別に、どこでも……」
言ってから、ハッとした。
なんだか、投げやりな言い方だったんじゃないかなって。
仁くんと一緒なら、どこでもいいって意味なのに。
けれど、仁くんは特に気にしてる様子はなかった。
「……俺んち、くる?」
少しだけ、つないだ手にきゅっと力が入った。
私は、ぽかんと口を開けて固まってしまった。
「あ、いや。深い意味はなくてだな……。飲み直そうって、ただ、そんだけで……」
「なんでもいいよ……」
手を握り返したけど、仁くんは黙ってしまった。
……違う。
『理由なんて、なんでもいい』っていう意味だったのに。
また言い方が悪かった。
ああ、なんで私、こんな言い方しかできないんだろう。
お互い仕事が忙しくて、仁くんの部屋に来るのは久しぶりだ。
玄関の前でパッと手が離れて、途端に心まで寒くなるような気がした。
鍵を開けて中に入ると、うっすらとメンソールの匂い。
仁くんの、いつもの匂い。
彼は肩にかけていたベースを部屋の隅にあるスタンドへ戻すと、そのままキッチンへ向かった。
「テキトーに座ってて」
言われて、ソファの隅の方にちょこんと座る。
……いや、これだとさっきの居酒屋と同じか。
少しだけ中央寄りに座り直す。
冷蔵庫を開ける音がして、ビールとおつまみを抱えて仁くんが戻ってきた。
ローテーブルに缶ビールとおつまみを並べると、仁くんは私の隣へどさっと腰を下ろす。
肩が触れそうなくらいの距離。
居酒屋ではあんなに騒がしかったのに、心臓の音が聞こえてしまいそうなくらい静かだ。
「……じゃ、飲み直すか」
「……うん……」
缶を軽く合わせる。
変なの。二人きりの時なんて、今までもあったのに。
今日はやけにドキドキする。やっぱり、さっきの恋人つなぎのせい?
プシュッと炭酸の弾ける音が重なり、冷たいビールが喉を滑り落ちていく。
他愛もない話をしながら缶を傾けるたび、私たちはゆっくりと酔いを深めていった。
もう一度、恋人つなぎ、したいな……なんて思いながら、瞼の重くなった目で仁くんの手を見つめる。
「おまえさっきさ」
仁くんが、急に口を開いた。
こっちをじっと睨むように見てくる顔が、さっきよりも赤い。
「隆臣さんのこと見てただろ」
「……えっ?」
意外な質問に、酔いが覚めるほど驚いて目を見開いた。
一瞬だけ答えに迷ってしまう。
「ち、違うよ?」
たしかに隆臣さんの方は見てたけど。
でもそれは、彼の〝手〟を見ていただけであって。
なんなら、メンバー全員の手を見ていたわけで。
これだけは、はっきりと「違う」って言える。
けれど、隆臣さんの手を見ていたことに変わりはなくて、少しだけ挙動不審になってしまった。
すると、仁くんは、わかりやすく拗ねたようにソファに寝転がる。
「あーあ、やっぱおまえもかぁ〜。男の俺から見てもかっこいいもんなぁ〜」
ち、違うってば……!
慌てて身を乗り出す。
「だから……手を見てたの!」
「手ぇ?」
仁くんは寝転んだまま、視線だけをこちらに向けて言った。
「なんで?」
「な、なんでって……」
そんな真っ直ぐ聞かれると困る。
「綺麗な指だな〜、とか、指長いなぁ〜とか、ゴツゴツしてるなぁ〜とか、おっきい手だなぁ〜とか……」
熱くなっていく頬を、両手で覆って冷やす。
やだもう……なんでこんなこと言わされてるの。
「俺の手は?」
寝転んだまま、手のひらだけをヒラヒラさせる。
「え……」
胸がどきりと鳴る。
ライブに行くたびに、目で追ってしまうのは仁くんだった。
ピックを握る右手。
ネックの上を滑る左手。
曲はBGMになって背景に溶けていき、そうなると私はもう、仁くんの指しか目に入らない。
そんな恥ずかしいこと言えなくて。
でも、もしかしたら、今までそうやって素直に言えなかったから。
私たちは先に進めずにいた?
お互い不器用で、意地っ張りで、本音を隠して。
今なら、お酒の力を借りても、いいよね……?
「見てる……よ」
「へ、へえ、そうなんだ」
素直に答えたのが意外だったのか、仁くんは少しだけ目を逸らした。
「ベース弾いてる時の仁くんの手が、いちばん好きかも」
そう言うと、仁くんは体を起こして、こちらに寄ってくる。
「それって、他のヤツと比べてるってこと?」
「じ、仁くんの手の中でってこと」
彼のいろんな手の形を、いつだって、鮮明に思い出せる。
「そんなに見てるの?」
言いながら、私の手に自分の手を重ねてきて、指を絡める。
ピクリと体が反応した。
胸がいっぱいになって声が出なくて、かろうじて、こくんと頷く。
「……他には?」
「ビリヤードの──キュー、構えてるところとか」
「うん……」
仁くんも、照れているのかだんだん頬を染めていく。
ゆるむ口元を押さえて、視線をそらした。
「やば……ニヤけるのおさまんねぇ」
そんな顔されたら、こっちまで恥ずかしい。
「真純って、そんな性癖あったん?」
「性癖って……」
思わず苦笑する。
まあ、言われてみればそうか。
「あ、じゃあ……」
思い出したように言って、仁くんは私を抱き寄せる。
大きな手が、私の頭を撫でた。
「これは?」
ふわふわと温かい気持ちになる。
「……好き、かも」
「〝かも〟じゃないだろ〜?」
苦笑してた仁くんも、だんだん真剣な顔になってきて。
「真純……」
ゆっくりと顔が近づく気配に、私は自然と目を閉じる。
ちゅ、と音を立てて、唇が軽く触れ合った。
「もっと触ってい?」
「……いいよ」
仁くんは、意外そうに目を丸くして、今度は頬に触れて真正面からのキス。
ぶっきらぼうで、不器用で。
それでも私に触れる指先は、いつだってやさしい。
知ってるんだから。
でも、それを口にしたら照れてやめちゃいそうだから、言わない。
やがて私たちは、ソファの上へ倒れ込むように身を預けた。
見上げた先で、仁くんが照れたように笑う。
私の髪をそっと払った手が、そのまま肩へ滑り、服のボタンに触れる。
さっきまでベースを奏でていた、大きな手。
私の大好きな、その手。
耳元へ唇を寄せ、仁くんが悪戯っぽく囁いた。
「俺、もっとすごいフェチあるんだよね」
「な、なに……」
「……言わない」
そう言って、意地悪く笑ったかと思うと、
「でも、教えてやるよ」
言いながら、重なる唇。
さっきとは違う、少しだけ深くて長い口づけに、身体中が熱を帯びていく。
酔った勢いでだなんて、全然ロマンチックじゃないけれど。
でも、それが私たちらしい。
ああ……。私も相当、酔ってるな──



