季節は、いつの間にか冬へと移り変わっていた。
都心を見下ろすタワーマンションの窓には、細かな雪が静かに舞い始めている。
リビングには、出来立ての夕食の香りが漂っていた。
「春太さん、お帰りなさいませ。」
いつものように、小春が玄関まで駆け寄る。
その笑顔は、出会った日から何一つ変わらない。
曇りのない、真っ直ぐな笑顔。
けれど春太だけは、もう以前の自分ではいられなかった。
その笑顔を見るたびに胸が熱くなり、その声を聞くだけで一日の疲れがほどけていく。
「……ただいま。」
自然と返したその言葉に、小春は少し驚いたように目を瞬かせ、それから嬉しそうに微笑んだ。
「今日はシチューなんです。寒いので温まっていただけたらと思って。」
「そうか。」
短い返事。
だが、その声音は以前のような冷たさを失っていた。
小春も、それに気づいていた。
それでも何も聞かない。
踏み込まず、急がず、春太が自分から話してくれる日を待っている。
そんな優しさが、春太には痛いほど伝わっていた。
その夜。
夕食を終えた二人は、温かい紅茶を片手に夜景を眺めていた。
しばらく沈黙が続く。
けれど、不思議と気まずさはない。
静かな時間さえ心地よかった。
やがて春太が静かに口を開く。
「小春。」
「はい。」
「……この前、お前は言ったな。契約が終われば身を引く、と。」
その瞬間、小春の表情が少しだけ曇る。
「はい。」
「最初から、その約束でしたから。」
「春太さんには、本当に好きな人ができるかもしれませんし……。」
そこまで言ったところで、小春は小さく笑った。
「私は、この数か月だけでも十分幸せでした。」
「だから――」
「やめろ。」
春太の声が、静かな部屋に響いた。
小春が驚いて顔を上げる。
春太は拳を強く握り締め、何度も深呼吸を繰り返していた。
会社で何百億円の契約をまとめる時ですら震えたことのない指先が、今は情けないほど震えている。
「春太さん……?」
「……俺は。」
何度も言葉を飲み込む。
けれど、もう逃げられなかった。
逃げたくもなかった。
「最初に、お前へ言ったことを覚えているか。」
小春は静かに頷く。
「『君を妻として迎えるが、愛するつもりはない』……ですよね。」
「ああ。」
春太は苦く笑った。
「最低な男だった。」
「そんなこと――」
「いや、最低だった。」
自分の言葉を、自分で否定する。
「お前を傷つけることしか考えていなかった。」
「政略結婚だから。」
「感情は不要だと思っていた。」
「お前を、お飾りの妻としてしか見ていなかった。」
小春は静かに首を振る。
「私は気にしていません。」
「気にしていたのは、俺だ。」
春太は苦笑した。
「毎日、お前の料理を食べて。」
「『お帰りなさい』と言われて。」
「笑顔を見て。」
「怪我をすれば心配して。」
「熱を出せば仕事を休んで。」
「他の男が近づけば嫉妬して。」
「契約が終わると言われただけで、息ができなくなった。」
春太はゆっくりと小春を見つめる。
「こんなものを、同情だと言い張っていた俺は、本当に救いようのない馬鹿だ。」
小春の瞳が、少しずつ潤んでいく。
「だから。」
春太はまっすぐ彼女を見つめた。
「最初の言葉を、全部撤回する。」
その一言に、小春の肩が小さく震えた。
「愛するつもりはないと言った。」
「……あれは間違いだった。」
「気づいた時には、もう遅かった。」
「仕事をしていても、お前のことばかり考える。」
「家に帰れば、お前を探している。」
「笑ってくれるだけで嬉しい。」
「悲しそうな顔を見ると、自分まで苦しい。」
「小春。」
春太は一歩だけ近づく。
「俺は、お前を愛している。」
部屋の中が静まり返る。
時計の秒針だけが、小さく時を刻んでいた。
小春は唇を震わせながら、小さく息を吸う。
「……本当に?」
「ああ。」
「契約だからではなく?」
「違う。」
「責任だからでも?」
「違う。」
「同情でも?」
春太は小さく笑った。
「その言葉で何か月も自分をごまかしてきた。」
「でも、もう無理だ。」
「俺は、お前を失いたくない。」
「契約なんて終わってもいい。」
「だが、お前との人生は終わらせたくない。」
その瞬間だった。
ぽろり、と小春の頬を涙が伝う。
「私も……。」
震える声で、小春が言う。
「私も、春太さんが大好きです。」
「最初は怖い人だと思っていました。」
「でも、本当は誰より優しくて、不器用で。」
「その優しさを知るたびに、もっと好きになっていました。」
涙を拭おうとする小春の手を、春太はそっと包む。
今度は勢いでも、勘違いでもない。
大切なものに触れるような、穏やかな手つきだった。
「これからは。」
春太は柔らかく微笑む。
「契約なんて言葉は忘れよう。」
「夫婦として。」
「人生を一緒に歩いてほしい。」
小春は何度も頷きながら、涙の中で笑う。
「はい……!」
「よろしくお願いします。」
春太も笑った。
冷徹と呼ばれた男が見せる、初めての穏やかな笑顔だった。
窓の外では雪が静かに降り積もっていく。
けれど二人のいる部屋だけは、不思議なくらい温かかった。
「お帰りなさい」と迎えてくれる場所。
「ただいま」と帰る相手。
政略結婚から始まった二人は、その夜ようやく、本当の意味で心を通わせた夫婦になったのだった。
都心を見下ろすタワーマンションの窓には、細かな雪が静かに舞い始めている。
リビングには、出来立ての夕食の香りが漂っていた。
「春太さん、お帰りなさいませ。」
いつものように、小春が玄関まで駆け寄る。
その笑顔は、出会った日から何一つ変わらない。
曇りのない、真っ直ぐな笑顔。
けれど春太だけは、もう以前の自分ではいられなかった。
その笑顔を見るたびに胸が熱くなり、その声を聞くだけで一日の疲れがほどけていく。
「……ただいま。」
自然と返したその言葉に、小春は少し驚いたように目を瞬かせ、それから嬉しそうに微笑んだ。
「今日はシチューなんです。寒いので温まっていただけたらと思って。」
「そうか。」
短い返事。
だが、その声音は以前のような冷たさを失っていた。
小春も、それに気づいていた。
それでも何も聞かない。
踏み込まず、急がず、春太が自分から話してくれる日を待っている。
そんな優しさが、春太には痛いほど伝わっていた。
その夜。
夕食を終えた二人は、温かい紅茶を片手に夜景を眺めていた。
しばらく沈黙が続く。
けれど、不思議と気まずさはない。
静かな時間さえ心地よかった。
やがて春太が静かに口を開く。
「小春。」
「はい。」
「……この前、お前は言ったな。契約が終われば身を引く、と。」
その瞬間、小春の表情が少しだけ曇る。
「はい。」
「最初から、その約束でしたから。」
「春太さんには、本当に好きな人ができるかもしれませんし……。」
そこまで言ったところで、小春は小さく笑った。
「私は、この数か月だけでも十分幸せでした。」
「だから――」
「やめろ。」
春太の声が、静かな部屋に響いた。
小春が驚いて顔を上げる。
春太は拳を強く握り締め、何度も深呼吸を繰り返していた。
会社で何百億円の契約をまとめる時ですら震えたことのない指先が、今は情けないほど震えている。
「春太さん……?」
「……俺は。」
何度も言葉を飲み込む。
けれど、もう逃げられなかった。
逃げたくもなかった。
「最初に、お前へ言ったことを覚えているか。」
小春は静かに頷く。
「『君を妻として迎えるが、愛するつもりはない』……ですよね。」
「ああ。」
春太は苦く笑った。
「最低な男だった。」
「そんなこと――」
「いや、最低だった。」
自分の言葉を、自分で否定する。
「お前を傷つけることしか考えていなかった。」
「政略結婚だから。」
「感情は不要だと思っていた。」
「お前を、お飾りの妻としてしか見ていなかった。」
小春は静かに首を振る。
「私は気にしていません。」
「気にしていたのは、俺だ。」
春太は苦笑した。
「毎日、お前の料理を食べて。」
「『お帰りなさい』と言われて。」
「笑顔を見て。」
「怪我をすれば心配して。」
「熱を出せば仕事を休んで。」
「他の男が近づけば嫉妬して。」
「契約が終わると言われただけで、息ができなくなった。」
春太はゆっくりと小春を見つめる。
「こんなものを、同情だと言い張っていた俺は、本当に救いようのない馬鹿だ。」
小春の瞳が、少しずつ潤んでいく。
「だから。」
春太はまっすぐ彼女を見つめた。
「最初の言葉を、全部撤回する。」
その一言に、小春の肩が小さく震えた。
「愛するつもりはないと言った。」
「……あれは間違いだった。」
「気づいた時には、もう遅かった。」
「仕事をしていても、お前のことばかり考える。」
「家に帰れば、お前を探している。」
「笑ってくれるだけで嬉しい。」
「悲しそうな顔を見ると、自分まで苦しい。」
「小春。」
春太は一歩だけ近づく。
「俺は、お前を愛している。」
部屋の中が静まり返る。
時計の秒針だけが、小さく時を刻んでいた。
小春は唇を震わせながら、小さく息を吸う。
「……本当に?」
「ああ。」
「契約だからではなく?」
「違う。」
「責任だからでも?」
「違う。」
「同情でも?」
春太は小さく笑った。
「その言葉で何か月も自分をごまかしてきた。」
「でも、もう無理だ。」
「俺は、お前を失いたくない。」
「契約なんて終わってもいい。」
「だが、お前との人生は終わらせたくない。」
その瞬間だった。
ぽろり、と小春の頬を涙が伝う。
「私も……。」
震える声で、小春が言う。
「私も、春太さんが大好きです。」
「最初は怖い人だと思っていました。」
「でも、本当は誰より優しくて、不器用で。」
「その優しさを知るたびに、もっと好きになっていました。」
涙を拭おうとする小春の手を、春太はそっと包む。
今度は勢いでも、勘違いでもない。
大切なものに触れるような、穏やかな手つきだった。
「これからは。」
春太は柔らかく微笑む。
「契約なんて言葉は忘れよう。」
「夫婦として。」
「人生を一緒に歩いてほしい。」
小春は何度も頷きながら、涙の中で笑う。
「はい……!」
「よろしくお願いします。」
春太も笑った。
冷徹と呼ばれた男が見せる、初めての穏やかな笑顔だった。
窓の外では雪が静かに降り積もっていく。
けれど二人のいる部屋だけは、不思議なくらい温かかった。
「お帰りなさい」と迎えてくれる場所。
「ただいま」と帰る相手。
政略結婚から始まった二人は、その夜ようやく、本当の意味で心を通わせた夫婦になったのだった。



