恋するつもりはなかった、僕らの夫婦物語。

「……社長。」

秘書の神崎が、静かにスケジュール帳を閉じた。

「本日の会議は、すべて終了しました。」

「ああ。」

春太は短く答えたものの、手元の書類には一文字も目が入っていなかった。

視線は窓の外に広がる夕焼けへ向けられている。

ここ最近、仕事は順調そのものだった。

新規事業も好調。

株価も上昇。

役員たちからの評価も高い。

本来なら、何一つ悩む理由などない。

それなのに。

(……今日は何を作っているんだろう。)

気がつけば、そんなことばかり考えてしまう。

昨日は肉じゃがだった。

一昨日は鮭の西京焼き。

その前は、少し焦げたけれど、一生懸命焼いたグラタン。

どれも小春らしく、不器用なくらい真っ直ぐな味だった。

「社長。」

神崎が咳払いをする。

「もう定時は過ぎています。」

「そうか。」

「帰宅されますか。」

「……ああ。」

「奥様がお待ちでしょうから。」

「違う。」

春太は反射的に否定した。

「別に待たせたくないわけではない。」

「承知しました。」

「……。」

「否定しないんですか。」

「今さらですので。」

神崎は小さく笑った。

「最近の社長は、十八時を過ぎると仕事の効率が三割ほど落ちています。」

「……根拠は。」

「奥様が夕飯を待っている時間です。」

「違う。」

「はい。」

「……その『はい』は何だ。」

「聞き流しました。」

「聞き流すな。」

神崎は深く一礼すると、「お気をつけて」とだけ言い残して社長室をあとにした。

その背中を見送りながら、春太は小さく息をつく。

(……俺は、本当に分かりやすくなっているのか。)

自覚は、あった。

認めたくないだけで。



マンションへ戻ると、玄関には温かな灯りがともっていた。

「お帰りなさいませ!」

ぱたぱたと軽い足音が近づき、見慣れたひよこ柄のエプロン姿が現れる。

「今日は少し早かったですね!」

「……ああ。」

「今日はシチューなんです。少し寒くなってきましたから。」

嬉しそうに笑う小春を見た瞬間、春太の胸の奥がふわりと温かくなる。

以前なら、それを「警戒すべき策略」だと思っていた。

今は違う。

彼女は、ただ喜んでいるだけなのだ。

自分が帰ってきたことを。

その事実が、どうしようもなく胸に染みる。

「どうぞ!」

食卓には、湯気を立てるクリームシチューと焼きたてのパンが並んでいた。

「今日も、美味しそうだな。」

言葉が口をついて出た。

小春は目を丸くする。

「えっ……?」

「あ……。」

春太も固まった。

今まで、「悪くない」以上の評価を口にしたことはない。

「えっと……ありがとうございます!」

小春は耳まで赤くしながら、はにかんだ。

その笑顔が眩しくて、春太は慌てて視線を逸らす。

(危ない。)

(もっと普通に言うつもりだった。)

(なぜこんなに照れているんだ。)



食後、小春は温かい紅茶を淹れてくれた。

窓の外には、都会の夜景がきらめいている。

静かな時間だった。

「春太さん。」

「……何だ。」

「少し、お話ししてもいいですか?」

どこか遠慮がちな声だった。

「構わない。」

小春は両手でカップを包み込み、小さく息を吸った。

「私、最近とても幸せなんです。」

「…………。」

「毎日『お帰りなさい』って言えて、一緒にご飯を食べて、お話しして……。そんな普通のことが、こんなに嬉しいなんて思いませんでした。」

春太は何も言えない。

ただ静かに、その続きを待った。

「だからこそ……時々、少しだけ怖くなるんです。」

「怖い?」

「はい。」

小春は寂しそうに笑った。

「これは契約結婚ですから。」

その一言だけで。

春太の心臓が、大きく音を立てた。

「契約……。」

「最初に約束しましたよね。」

小春は穏やかな笑顔のまま続ける。

「春太さんには好きな人ができたら、その方と結婚していただきたいです。」

「私は、お飾りの妻として役目を終えたら、ちゃんと身を引きます。」

「だから、それまでの間だけでも、少しでも春太さんのお役に立てたらって……。」

春太の頭が真っ白になる。

(身を引く……?)

(誰が……?)

(小春が?)

目の前からいなくなる。

もう「お帰りなさい」と笑ってくれる人はいない。

夜遅く帰っても、温かい料理はない。

あの笑顔も。

あの声も。

あのひよこ柄のエプロンも。

全部、なくなる。

「……嫌だ。」

思わず漏れた小さな声に、小春が瞬きをした。

「え?」

春太は、自分が何を口にしたのか、一瞬理解できなかった。

「……。」

部屋の中が、静まり返る。

「春太さん……?」

心配そうに覗き込む小春。

春太は慌てて視線を逸らした。

「あ、でも、契約期間中は……。」

喉がひどく渇く。

「勝手に、そんなことを考えるな。」

ようやく絞り出した言葉は、いつものような冷たい口調だった。

しかし、その声はどこか苦しそうに震えていた。

小春は少し驚いたように目を見開き、それから柔らかく微笑んだ。

「ふふ。」

「何だ。」

「春太さん、やっぱり優しいですね。」

「違う。」

「契約を守ろうとしてくださっているんですよね。」

「……。」

「ありがとうございます。」

違う。

そうじゃない。

契約だからではない。

責任だからでもない。

その理由を、自分は知っている。

知っているのに、まだ言葉にできない。

春太はゆっくりと拳を握りしめた。

(俺は……。)

(小春がいなくなることを、想像しただけで息が苦しくなった。)

それが何を意味するのか。

冷徹な社長である彼の頭脳は、とっくに答えを導き出していた。

ただ一人、本人だけが、その答えを認める勇気を持てずにいた。

夜景の向こうでは、無数の灯りが静かに瞬いている。

その光よりも温かい笑顔が、目の前にはあった。

そして春太は、ようやく気づき始める。

契約は、いつか終わるものだ。

けれど、自分が望んでいるのは。

契約の終わりではなく――小春と歩く「その先の人生」なのだということを。