「……社長。」
秘書・神崎が、静かに書類を机へ置いた。
「本日の決裁書類です。」
「ああ。」
春太は書類を受け取る。しかし、ページをめくる手が止まった。そこにあった付箋の色が、ふと目に入る。淡い黄色。
(……ひよこ柄のエプロン。)
「……。」
まただ。また小春を思い出した。
「社長。」
「……何だ。」
「付箋を見つめて五分経過しました。」
「そんなに経っていない。」
「四分五十七秒です。」
「変わらん!」
神崎は真顔のまま眼鏡を押し上げた。
「重症ですね。」
「違う。」
「奥様不足です。」
「違うと言っている。」
神崎はため息をつく。
「本日の予定ですが、このあと二件の会食があります。」
「断る。」
「理由を伺っても?」
春太は腕時計を見た。
十八時十分。
(今なら……。)
「帰宅する。」
「はい。」
神崎は一切驚かなかった。
「夕飯ですね。」
「違う。」
「奥様ですね。」
「違う。」
「では夕飯ですか。」
「…………。」
図星だった。
「お帰りなさいませ!」
玄関を開けた瞬間。
今日も小春が走ってくる。
パタパタ。
ひよこ柄エプロンが揺れる。
「今日は早いですね!」
その笑顔だけで。春太の心臓が、今日も律儀に暴走した。
(落ち着け。)
(平常心だ。)
(笑顔だぞ。)
(ただ笑っているだけだ。)
「春太さん?」
「……何でもない。」
「今日はハンバーグなんです!」
「……そうか。」
「昨日テレビで社長さんはハンバーグが好きって言っていたので!」
「…………。」
テレビ。余計なことを。
「だから作ってみました!」
「……。」
可愛い。いや違う。料理の話だ。料理が可愛い。
(料理が可愛いとは何だ。)
自分の思考がおかしくなっている。
夕食。
「どうぞ!」
湯気の立つハンバーグ。
ソースの香り。
付け合わせまで丁寧に作られている。
春太はナイフを入れた。
肉汁があふれる。
一口。
「…………。」
美味い。
店より美味い。
「お、お口に合いましたか?」
期待に満ちた瞳。
「……悪くない。」
「本当ですか!」
ぱあっと笑う。
まただ。その笑顔。
(やめろ。)
(そんな顔をするな。)
(理性が保たない。)
「おかわりあります!」
「…………。」
「いっぱい食べてください!」
「……いただく。」
気づけば。今日も二人前食べていた。
数日後。
「三十八・七度です。」
家庭医が体温計を見て言った。
「軽い風邪ですね。」
「え?」
ベッドの上で小春が困ったように笑う。
「私、元気なんですけど……。」
「元気な人は三十八度ありません。」
医師が苦笑した。
春太は横で腕を組んでいる。
表情は無。
しかし。
「先生。」
「はい。」
「入院は必要ですか。」
「必要ありません。」
「点滴は。」
「不要です。」
「精密検査は。」
「風邪です。」
「本当に?」
「はい。」
医師は笑った。
「社長さん。」
「……何ですか。」
「心配しすぎです。」
「違います。」
即答だった。
「夫として当然です。」
「そうですね。」
医師は優しく頷いた。
「では奥様、ゆっくり休んでください。」
診察が終わる。
春太はすぐキッチンへ向かった。
「春太さん?」
「寝ていろ。」
「でも……。」
「命令だ。」
「はい……。」
小春は素直に布団へ戻った。
一時間後。
春太は人生で初めて、おかゆを作っていた。
スマートフォンでレシピを見ながら。
「……水が多いのか?」
「違うか。」
「塩……。」
家政婦がいれば十分だった。
自分が料理をする必要など一度もなかった。
それでも。
「できた。」
不格好なおかゆを持って部屋へ入る。
「春太さん!」
小春が目を丸くした。
「これ……。」
「食べろ。」
「春太さんが? 食べさせてくれるのですか?」
「仕方ない。」
照れ隠しのように咳払いする。
「夫として当然だ。」
小春は一口食べた。
「……。」
ぽろっ。
涙が落ちた。
「おい。」
「まずかったか。」
「違います!」
小春は首をぶんぶん振る。
「嬉しくて……。」
「こんなに大事にしてもらったの、初めてで……。」
その言葉に。春太の胸が締め付けられた。
自然と手が伸びる。熱を測るように。小春の額へ。
「まだ熱いな。」
「……はい。」
「今日は何もしなくていい。」
「でも。」
「俺が全部やる。」
「え?」
「掃除も。洗濯も。食器も。全部だ。」
「春太さん、お仕事は?」
「休んだ。」
「えぇっ!?」
「一日くらい会社は潰れん。」
本当は。午前中の会議まで全部延期した。
その理由は。目の前の妻が熱を出したから。
ただ、それだけ。
「……ありがとう、ございます。」
小春は嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を見て。春太はまた胸を押さえる。
(これは。)
(責任感だ。)
(夫として当然。)
(そうだ。)
(当然……。)
その日の夜。
神崎から一通のメッセージが届いた。
「奥様の具合はいかがですか?」
春太は短く返信する。
「熱は少し下がった。」
数秒後。
返信が来た。
「安心しました。」
「ところで社長。」
「好きな人が風邪を引くと、誰でも仕事を休みます。」
春太は画面を見つめたまま固まった。
そして。スマホを伏せて、小さく呟く。
「……違う。」
しかしその否定は、もう以前のような自信に満ちたものではなかった。
彼自身が一番気づき始めていた。
これはもう、「夫の義務」などでは説明できない感情なのだと。
秘書・神崎が、静かに書類を机へ置いた。
「本日の決裁書類です。」
「ああ。」
春太は書類を受け取る。しかし、ページをめくる手が止まった。そこにあった付箋の色が、ふと目に入る。淡い黄色。
(……ひよこ柄のエプロン。)
「……。」
まただ。また小春を思い出した。
「社長。」
「……何だ。」
「付箋を見つめて五分経過しました。」
「そんなに経っていない。」
「四分五十七秒です。」
「変わらん!」
神崎は真顔のまま眼鏡を押し上げた。
「重症ですね。」
「違う。」
「奥様不足です。」
「違うと言っている。」
神崎はため息をつく。
「本日の予定ですが、このあと二件の会食があります。」
「断る。」
「理由を伺っても?」
春太は腕時計を見た。
十八時十分。
(今なら……。)
「帰宅する。」
「はい。」
神崎は一切驚かなかった。
「夕飯ですね。」
「違う。」
「奥様ですね。」
「違う。」
「では夕飯ですか。」
「…………。」
図星だった。
「お帰りなさいませ!」
玄関を開けた瞬間。
今日も小春が走ってくる。
パタパタ。
ひよこ柄エプロンが揺れる。
「今日は早いですね!」
その笑顔だけで。春太の心臓が、今日も律儀に暴走した。
(落ち着け。)
(平常心だ。)
(笑顔だぞ。)
(ただ笑っているだけだ。)
「春太さん?」
「……何でもない。」
「今日はハンバーグなんです!」
「……そうか。」
「昨日テレビで社長さんはハンバーグが好きって言っていたので!」
「…………。」
テレビ。余計なことを。
「だから作ってみました!」
「……。」
可愛い。いや違う。料理の話だ。料理が可愛い。
(料理が可愛いとは何だ。)
自分の思考がおかしくなっている。
夕食。
「どうぞ!」
湯気の立つハンバーグ。
ソースの香り。
付け合わせまで丁寧に作られている。
春太はナイフを入れた。
肉汁があふれる。
一口。
「…………。」
美味い。
店より美味い。
「お、お口に合いましたか?」
期待に満ちた瞳。
「……悪くない。」
「本当ですか!」
ぱあっと笑う。
まただ。その笑顔。
(やめろ。)
(そんな顔をするな。)
(理性が保たない。)
「おかわりあります!」
「…………。」
「いっぱい食べてください!」
「……いただく。」
気づけば。今日も二人前食べていた。
数日後。
「三十八・七度です。」
家庭医が体温計を見て言った。
「軽い風邪ですね。」
「え?」
ベッドの上で小春が困ったように笑う。
「私、元気なんですけど……。」
「元気な人は三十八度ありません。」
医師が苦笑した。
春太は横で腕を組んでいる。
表情は無。
しかし。
「先生。」
「はい。」
「入院は必要ですか。」
「必要ありません。」
「点滴は。」
「不要です。」
「精密検査は。」
「風邪です。」
「本当に?」
「はい。」
医師は笑った。
「社長さん。」
「……何ですか。」
「心配しすぎです。」
「違います。」
即答だった。
「夫として当然です。」
「そうですね。」
医師は優しく頷いた。
「では奥様、ゆっくり休んでください。」
診察が終わる。
春太はすぐキッチンへ向かった。
「春太さん?」
「寝ていろ。」
「でも……。」
「命令だ。」
「はい……。」
小春は素直に布団へ戻った。
一時間後。
春太は人生で初めて、おかゆを作っていた。
スマートフォンでレシピを見ながら。
「……水が多いのか?」
「違うか。」
「塩……。」
家政婦がいれば十分だった。
自分が料理をする必要など一度もなかった。
それでも。
「できた。」
不格好なおかゆを持って部屋へ入る。
「春太さん!」
小春が目を丸くした。
「これ……。」
「食べろ。」
「春太さんが? 食べさせてくれるのですか?」
「仕方ない。」
照れ隠しのように咳払いする。
「夫として当然だ。」
小春は一口食べた。
「……。」
ぽろっ。
涙が落ちた。
「おい。」
「まずかったか。」
「違います!」
小春は首をぶんぶん振る。
「嬉しくて……。」
「こんなに大事にしてもらったの、初めてで……。」
その言葉に。春太の胸が締め付けられた。
自然と手が伸びる。熱を測るように。小春の額へ。
「まだ熱いな。」
「……はい。」
「今日は何もしなくていい。」
「でも。」
「俺が全部やる。」
「え?」
「掃除も。洗濯も。食器も。全部だ。」
「春太さん、お仕事は?」
「休んだ。」
「えぇっ!?」
「一日くらい会社は潰れん。」
本当は。午前中の会議まで全部延期した。
その理由は。目の前の妻が熱を出したから。
ただ、それだけ。
「……ありがとう、ございます。」
小春は嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を見て。春太はまた胸を押さえる。
(これは。)
(責任感だ。)
(夫として当然。)
(そうだ。)
(当然……。)
その日の夜。
神崎から一通のメッセージが届いた。
「奥様の具合はいかがですか?」
春太は短く返信する。
「熱は少し下がった。」
数秒後。
返信が来た。
「安心しました。」
「ところで社長。」
「好きな人が風邪を引くと、誰でも仕事を休みます。」
春太は画面を見つめたまま固まった。
そして。スマホを伏せて、小さく呟く。
「……違う。」
しかしその否定は、もう以前のような自信に満ちたものではなかった。
彼自身が一番気づき始めていた。
これはもう、「夫の義務」などでは説明できない感情なのだと。



