恋するつもりはなかった、僕らの夫婦物語。

「……同情だ」
大鷹春太は、誰もいない書斎で三度目の結論を口にした。
「これは恋愛感情ではない。ただ、境遇を気の毒に思っているだけだ」
言葉にした瞬間、自分でも説得力がゼロだと分かった。
気の毒だから、仕事を放り出してホテルへ駆けつけるのか。
気の毒だから、知らない男に触れられただけで理性が吹き飛ぶのか。
気の毒だから、「兄」と聞いただけで全身の力が抜けるほど安心するのか。
「…………」
春太は額を押さえた。
(終わっている……)
恋愛経験がないわけではない。
学生時代も、社長就任後も、言い寄ってくる女性は数え切れなかった。
だが誰に対しても、こんな風に心を乱されたことは一度もない。
「社長。」
ノックの音がした。
「失礼します。」
秘書の神崎が書類を持って入ってくる。
「本日キャンセルされた役員会ですが、副社長から『社長が体調不良とは珍しいですね』とのことです。」
「……そうか。」
「あと。」
神崎は少しだけ首を傾げた。
「本当に体調不良ですか?」
「……何が言いたい。」
「今日は三時間でコーヒーを八杯飲み、書類を逆さまに読み、契約書に『小春』と署名しかけていました。」
「……………………」
春太は固まった。
神崎は淡々と言う。
「恋ですか?」
「違う。」
即答だった。
「では重病ですね。」
「違う。」
「安心しました。」
「安心する要素がどこにある。」
神崎は真顔のまま頷く。
「恋なら治療法があります。」
「聞く気はない。」
「奥様です。」
「聞いてない。」
「帰宅してください。」
「……。」
「仕事になっていません。」
図星だった。



その日の夕方。
春太は珍しく十九時前に帰宅した。
玄関を開ける。
「お帰りなさいませ!」
いつもの笑顔。
いつものひよこ柄エプロン。
「今日はですね!」
小春が嬉しそうに駆け寄る。
「春太さんのお好きな煮魚に挑戦してみたんです!」
「…………」
可愛い。
その一言が脳内を占領した。
(待て。)
(何を考えている。)
(エプロンだぞ。)
(ひよこ柄だぞ。)
(可愛いに決まってるだろ。)
「春太さん?」
「……なんでもない。」
危ない。
危うく「可愛い」と口に出すところだった。
「今日はですね!」
小春は冷蔵庫から何かを取り出す。
「デザートもあるんです!」
プリンだった。
少し形が崩れている。
「実は三回失敗しちゃって……」
照れ笑いを浮かべる。
「でも四回目でやっと固まって!」
春太はプリンを見つめた。
四回。自分のためだけに。
「……なぜそこまでする。」
小春はきょとんとした。
「え?」
「俺は君に何も求めていない。」
「はい。」
「愛するつもりもないと言った。」
「はい。」
「それでもなぜ笑っていられる。」
その問いに、小春は少し考えてから笑った。
「だって、春太さん、毎日頑張ってますから。」
「…………」
「会社のみなさんを守って、お仕事して、遅くまで働いて。」
「だから、お家くらいは安心してほしいなって。」
「それだけです。」
春太は何も言えなかった。
「それに。」
小春は小さく笑う。
「春太さん、最初は怖い人だと思ってたんです。」
「……そうか。」
「でも、本当はすごく優しいですよね。」
「は?」
「怪我した時、怒ってくれました。」
「風邪をひくって心配してくれました。」
「卵焼きも全部食べてくれました。」
「この前も。」
「ホテルまで迎えに来てくれました。」
「…………」
違う。
迎えに行ったわけじゃない。
嫉妬で頭がおかしくなっただけだ。
「だから、きっと照れ屋さんなんですよね。」
にこっ。
またその笑顔。
春太は心臓を押さえた。
(無理だ。)
(その笑顔は禁止だ。)
(毎回寿命が縮む。)


夕食後。
小春は食器を洗っていた。
春太は珍しくソファで新聞を読んでいる。
……読んでいるふりをしている。
視線は何度もキッチンへ向かう。
鼻歌。
楽しそうに皿を洗う姿。
エプロンの紐が少し曲がっている。
(結び直したい。)
「…………」
何を考えている。
その時だった。
「きゃっ!」
ガシャン。小皿が滑った。
春太は反射的に立ち上がる。
「小春!」
一瞬でキッチンへ。
「大丈夫か!」
「はい!」
「少し欠けちゃいました!」
「怪我は!」
「ありません」
「見せろ。」
春太は両手を取った。
細い指。白い手。傷一つない。
「……よかった。」
安心した声だった。
その瞬間。二人とも止まった。
「あ……」
小春が真っ赤になる。春太も気付く。
自分が。両手で。
妻の手を包み込んでいることに。
「…………」
「…………」
沈黙。
十秒。
二十秒。
三十秒。
「あ、あの……」
小春が恥ずかしそうに言う。
「春太さん。」
「……なんだ。」
「手。」
「…………」
まだ握っていた。
「!!!!!!」
春太は飛び退いた。
「す、すまん!」
「危険確認だ!」
「安全管理だ!」
「企業として当然の!」
何を言っているのか自分でも分からない。
小春はくすっと笑った。
「ありがとうございます。」
「心配してくださったんですね。」
「違う。」
反射で否定する。
「……そうですか。」
少しだけ残念そうな顔。
その表情を見た瞬間。
春太は猛烈に後悔した。
(違わない。)
(心配した。)
(ものすごく。)
(だから走った。)
(だから手を握った。)
(だから安心した。)
「…………」
認めろ。
心のどこかで誰かが言う。
これはもう。
同情なんかじゃない。
「……違う。」
春太は最後の抵抗をする。
「これは責任感だ。」
「夫として当然の。」
「保護義務だ。」
「そう。」
「保護義務だ。」




その夜。
ベッドに入った春太は天井を見つめながら呟いた。

「……保護義務で、笑顔を見るたびに心拍数が上がるわけがないだろ。」
ようやく。ほんの少しだけ。
自分でも認め始めていた。
愛するつもりはないと宣言した男は。
もう、とっくに手遅れだった。