「――大鷹社長、先ほど提出した新規事業の予算案ですが、修正点などは……」
「却下だ。やり直せ」
「えっ!?」
冷徹な一言に、企画部の社員が凍りつく。
だが、春太の頭の中は、今朝目撃した「ある光景」で完全に支配されていた。
今日の午前中、取引先へ向かう途中のホテルのロビーで、春太は小春の姿を見かけた。
家で見るひよこ柄のエプロン姿ではなく、育ちの良さが滲み出る上品なワンピース姿の小春。
それ自体はいい。問題は、その隣にいた見上げるほど高身長の男だ。
男は小春の頭を何度も優しく撫で、あろうことか小春の頬を両手で包み込んで、親しげに笑いかけていた。小春も小春で、男の腕に嬉しそうに抱きつき、これ以上ないほどの「ひまわり笑顔」を咲かせていたのだ。
(誰だあの男は。なぜ彼女の身体に触れている。なぜ、あんなに嬉しそうに笑っている……!?)
その瞬間、春太の胸の奥で、経験したことのないようなド黒い感情がドロドロと渦巻いた。
これまでビジネスの競合相手にどんな嫌がらせをされようが、眉一つ動かさなかった春太が、生まれて初めて「狂いそうなほどの激しい嫉妬」に襲われていた。
「おい、今日の午後のスケジュールをすべてキャンセルしろ」
「は、はい!? しかし、15時からは重要な役員会が……」
「体調不良だ。あとは副社長に任せる」
春太はガタッと椅子を蹴立てて立ち上がると、コートをひったくるようにして社長室を飛び出した。
仕事など手につくはずがない。あの男の手が小春に触れていた感覚を思い出すだけで、脳の血管が千切れそうだった。
猛スピードで車を走らせ、帰宅した春太は、リビングのドアを乱暴に開け放った。
「小春――ッ!」
「あ、春太さん!? お帰りなさいませ、お早いですね……わっ!?」
出迎えた小春の言葉が終わる前に、春太は彼女の細い手首を掴み、そのままリビングの壁へと押し付けた。いわゆる「壁ドン」の体勢だ。
いつもの冷静沈着な旦那様とは明らかに違う、獣のような鋭い眼差しに、小春は丸い目をパチクリとさせた。
「は、春太さん……? どうされたんですか? お顔がすごく怖い……」
「……午前中、ホテルのロビーで誰と会っていた」
低く、地を這うような怒気を含んだ声。
春太の目は本気だった。自分の「飾り」のはずの妻が、他の男に心を許しているかもしれないという事実が、彼の独占欲を限界突破させていた。
「答えろ。あの男は誰だ。なぜお前の頭を触っていた。なぜ……あんなに親しげに笑い合っていたんだ!」
嫉妬のあまり、語気が荒くなる。愛するつもりはないと言い放った男のセリフとしては、あまりにも矛盾だらけの、ただの束縛男のそれだった。
しかし、小春は怯えるどころか、ぽかんとした顔をしたあと、
「あ……もしかして、お兄ちゃんのことですか?」
「おに……ちゃん……?」
春太の思考が、本日二度目の完全停止を迎えた。
「はい! 兄の、冬真(とうま)兄ちゃんです。私が大鷹家に嫁いでから全然会えていなかったので、心配して様子を見に来てくれたんです。『春太さんにいじめられてないか!? もし泣かされてたら、いつでも俺が奪い返してやるからな!』って、すっごく過保護に心配されちゃって……」
小春は困ったように、でも嬉しそうにふふっと笑った。
「お、お兄……、実の、兄……?」
「はい。私をものすごく溺愛してくれている、たった一人の自慢のお兄ちゃんです。……あれ? 春太さん、どうされたんですか? お顔が真っ白ですよ?」
「…………」
春太はゆっくりと小春の手首を離し、一歩、また一歩とよろめきながら後ろへ下がった。
実の兄。
小春を溺愛する、血の繋がった兄。
つまり、あの親密な空気も、頭を撫でていたのも、すべては「妹を可愛がる兄のスキンシップ」であり、浮気でも不倫でもなんでもなかった。
(俺は……何を勘違いして、仕事を全部放り投げて、ここまで激昂して、壁に押し付けてまで問い詰めて……)
押し寄せる猛烈な羞恥心。
そしてそれ以上に、自分が小春を失うかもしれないと本気で怯え、狂うほどの嫉妬を抱いたという動かしがたい事実が、春太に突きつけられる。
「……は、春太さん?」
「……すまん。なんでもない。……急に、激しい目眩がしただけだ」
春太は両手で顔を覆い、その場に膝をつきそうになるのを必死でこらえた。
冷徹夫のプライドは粉々に砕け散り、自分が「無自覚な妻」に完全にハメ落とされていることを、嫌というほど自覚させられる緊急事態となった。
「却下だ。やり直せ」
「えっ!?」
冷徹な一言に、企画部の社員が凍りつく。
だが、春太の頭の中は、今朝目撃した「ある光景」で完全に支配されていた。
今日の午前中、取引先へ向かう途中のホテルのロビーで、春太は小春の姿を見かけた。
家で見るひよこ柄のエプロン姿ではなく、育ちの良さが滲み出る上品なワンピース姿の小春。
それ自体はいい。問題は、その隣にいた見上げるほど高身長の男だ。
男は小春の頭を何度も優しく撫で、あろうことか小春の頬を両手で包み込んで、親しげに笑いかけていた。小春も小春で、男の腕に嬉しそうに抱きつき、これ以上ないほどの「ひまわり笑顔」を咲かせていたのだ。
(誰だあの男は。なぜ彼女の身体に触れている。なぜ、あんなに嬉しそうに笑っている……!?)
その瞬間、春太の胸の奥で、経験したことのないようなド黒い感情がドロドロと渦巻いた。
これまでビジネスの競合相手にどんな嫌がらせをされようが、眉一つ動かさなかった春太が、生まれて初めて「狂いそうなほどの激しい嫉妬」に襲われていた。
「おい、今日の午後のスケジュールをすべてキャンセルしろ」
「は、はい!? しかし、15時からは重要な役員会が……」
「体調不良だ。あとは副社長に任せる」
春太はガタッと椅子を蹴立てて立ち上がると、コートをひったくるようにして社長室を飛び出した。
仕事など手につくはずがない。あの男の手が小春に触れていた感覚を思い出すだけで、脳の血管が千切れそうだった。
猛スピードで車を走らせ、帰宅した春太は、リビングのドアを乱暴に開け放った。
「小春――ッ!」
「あ、春太さん!? お帰りなさいませ、お早いですね……わっ!?」
出迎えた小春の言葉が終わる前に、春太は彼女の細い手首を掴み、そのままリビングの壁へと押し付けた。いわゆる「壁ドン」の体勢だ。
いつもの冷静沈着な旦那様とは明らかに違う、獣のような鋭い眼差しに、小春は丸い目をパチクリとさせた。
「は、春太さん……? どうされたんですか? お顔がすごく怖い……」
「……午前中、ホテルのロビーで誰と会っていた」
低く、地を這うような怒気を含んだ声。
春太の目は本気だった。自分の「飾り」のはずの妻が、他の男に心を許しているかもしれないという事実が、彼の独占欲を限界突破させていた。
「答えろ。あの男は誰だ。なぜお前の頭を触っていた。なぜ……あんなに親しげに笑い合っていたんだ!」
嫉妬のあまり、語気が荒くなる。愛するつもりはないと言い放った男のセリフとしては、あまりにも矛盾だらけの、ただの束縛男のそれだった。
しかし、小春は怯えるどころか、ぽかんとした顔をしたあと、
「あ……もしかして、お兄ちゃんのことですか?」
「おに……ちゃん……?」
春太の思考が、本日二度目の完全停止を迎えた。
「はい! 兄の、冬真(とうま)兄ちゃんです。私が大鷹家に嫁いでから全然会えていなかったので、心配して様子を見に来てくれたんです。『春太さんにいじめられてないか!? もし泣かされてたら、いつでも俺が奪い返してやるからな!』って、すっごく過保護に心配されちゃって……」
小春は困ったように、でも嬉しそうにふふっと笑った。
「お、お兄……、実の、兄……?」
「はい。私をものすごく溺愛してくれている、たった一人の自慢のお兄ちゃんです。……あれ? 春太さん、どうされたんですか? お顔が真っ白ですよ?」
「…………」
春太はゆっくりと小春の手首を離し、一歩、また一歩とよろめきながら後ろへ下がった。
実の兄。
小春を溺愛する、血の繋がった兄。
つまり、あの親密な空気も、頭を撫でていたのも、すべては「妹を可愛がる兄のスキンシップ」であり、浮気でも不倫でもなんでもなかった。
(俺は……何を勘違いして、仕事を全部放り投げて、ここまで激昂して、壁に押し付けてまで問い詰めて……)
押し寄せる猛烈な羞恥心。
そしてそれ以上に、自分が小春を失うかもしれないと本気で怯え、狂うほどの嫉妬を抱いたという動かしがたい事実が、春太に突きつけられる。
「……は、春太さん?」
「……すまん。なんでもない。……急に、激しい目眩がしただけだ」
春太は両手で顔を覆い、その場に膝をつきそうになるのを必死でこらえた。
冷徹夫のプライドは粉々に砕け散り、自分が「無自覚な妻」に完全にハメ落とされていることを、嫌というほど自覚させられる緊急事態となった。



