恋するつもりはなかった、僕らの夫婦物語。

「……よし。いつもの俺だ」
翌朝、洗面所の鏡に向かって、春太は完璧なビジネスマンの表情(ポーカーフェイス)を作り直した。
昨夜の動揺は、単なる過労と一時的な脳のバグ。そう結論づけた。愛するつもりはないと宣言したのだから、社長としての威厳を保ち、あくまで冷徹に、毅然と接すればいいだけのこと。
そう思いながらリビングへ向かうと、キッチンから小春がひょっこりと顔を出した。
昨夜、手を振り払ってしまったからか、どこかおずおずとした様子で佇んでいる。
「あの、春太さん……おはようございます」
「……ああ。おはよう」
極めて低く、冷淡なトーン。我ながら完璧な塩対応だと、春太は心の中で頷いた。
小春は、小さく息を呑むと、意を決したようにトレイに乗った小鉢をテーブルに置いた。
「あの!……これ、もしよろしければ、一口だけでも食べてみていただけませんか?」
差し出されたのは、ほんのりと焦げ目のついた、綺麗な黄金色の卵焼き。
「実は、前の肉じゃがのときに、春太さん『少し甘すぎる』って仰っていたので……。今回はお砂糖を控えめにして、白出汁を少し多めに入れてみたんです。春太さんの好みに、少しでも合わせたくて……」
小春は、上目遣いでじっと春太の反応をうかがっている。
その指先は、エプロンの裾をぎゅっと握りしめていて、少し震えていた。
(……好みに、合わせたくて)
その健気な言葉と、自分の好みを細かく覚えていたという事実に、春太の心臓が「ドクン」と不穏な警報を鳴らす。
「……言ったはずだ。そんなことをされても、俺の評価は上がらないと」
あえて冷たく突き放す。だが、小春はめげずに、少し照れくさそうに微笑んだ。
「はい! 評価はいりません。ただ、春太さんが『美味しい』って思ってくれたら、それだけで私はすっごく嬉しいんです。……ダメ、でしょうか?」
首を少し傾げ、潤んだ瞳でまっすぐに見つめてくる。
計算ではない。打算でもない。ただ純粋に「夫の喜ぶ顔が見たい」という、混じり気のない100%の善意。
(しまっ――……!)
春太は、心の中で天を仰いだ。
この女の純粋さは、もはや兵器だ。冷徹な仮面を容赦なく叩き割ってくる。
ここで断れば男がすたる、いや、ビジネスパーソンとして「出された試作品を評価しないのは非合理的」だと言い訳し、春太は無表情のまま箸を伸ばした。
パク、と卵焼きを口に入れる。
じゅわっと広がる出汁の旨味と、絶妙な塩加減。まさに、春太が完璧に理想とする味付けだった。
「…………っ」
あまりの美味さと、自分のためにここまで試行錯誤してくれた小春の健気さに、春太のポーカーフェイスがピキピキと音を立てて崩れていく。
叫び出したいほどの愛おしさが胸の奥から突き上げてくるのを、強靭な理性で強引に抑え込む。
「どう、でしょうか……? お口に、合いましたか?」
不安そうに顔を覗き込んでくる小春。その顔が、またしても近い。
「……悪くない」
春太は、震えそうになる声を必死にコントロールし、平然を装って言い放った。限界だった。これ以上ここにいたら、この女をどうにかしてしまいそうになる。
「よかった……! ありがとうございます!」
パァッ、と本日二度目のひまわり笑顔が咲く。
それを見た瞬間、春太はガタッと椅子を引いて立ち上がった。
「時間が惜しい。会社へ行く」
「あ、はい! いってらっしゃいませ、春太さん!」
背中に響く愛らしい声を振り切り、春太は逃げるようにマンションを飛び出した。
迎えの高級送迎車の後部座席に滑り込み、ドアが閉まった瞬間、春太は両手で顔を覆ってシートに深く沈み込んだ。
「ハァーーッ……クソ、死ぬかと思った……!」
車内のバックミラーに映る自分の顔は、耳の裏まで真っ赤に染まっている。
心臓は信じられないほどの速さで、バクバクとトランス状態のような音を立てていた。
「なんなんだあの女は……! あんなの、ただの凶器だろ……!」
冷徹夫のプライドはすでにズタズタ。限界ギリギリのポーカーフェイスで耐える春太だったが、迫り来る「陥落」の瞬間は、すぐそこまで来ていた。