恋するつもりはなかった、僕らの夫婦物語。

「大鷹社長、本日の一連の役員会議の資料ですが――」
「ああ、デスクに置いておいてくれ」
「……社長?」
秘書の怪訝そうな声に、春太はハッと我に返った。
手元の万年筆で、同じ箇所に何度もインクのシミを作ってしまっている。ビジネスにおいて「完璧」を信条とするこの俺が、あろうことか就業時間中に上の空になるとは。
(……あの女のせいだ)
頭をよぎるのは、昨夜の小春の寂しげな、それでいてまっすぐな瞳。
『私にできるのは、お料理を作って、「おかえりなさい」って言うことくらいだから……』
思い出すだけで、胸の奥が妙にむず痒く、熱い。
「ただの同情だ。没落した名家への、人道的な哀れみに過ぎない」
春太は自分に言い聞かせるように、きつくネクタイを締め直した。愛するつもりはないと宣言したのだ。今更ペースを乱されてたまるか。

その夜、春太はいつもより少しだけ早く、夜22時前に帰宅した。
早く帰ったのは決して小春に会いたかったからではなく、単に仕事の効率が良かったからだ――と、心の中で頑なに言い訳をしながら。
「ただいま」
小さく声をかけてドアを開ける。しかし、いつもならすぐに響くはずの「おかえりなさい!」というパタパタとした足音が聞こえない。
(……やはり、三日坊主だったか)
どこかホッとしたような、同時にひどく落胆したような複雑な心地でリビングへ足を踏み入れた春太は、その場でピタリと動きを止めた。
ソファの上で、小春が丸くなって眠っていた。
膝の上に料理のレシピ本を広げたまま、小さな寝息を立てている。あのひよこ柄のエプロンはつけたままだ。
テレビの消えた静かな部屋で、無防備に晒された白い項や、少し開いた桜色の唇。お嬢様育ちのくせに、ソファの端に縮こまって眠る姿は、まるで迷子の小動物のようだった。
「……こんなところで寝たら、風邪を引くだろうが」
春太は呆れたようにため息をつき、静かにソファへ歩み寄った。
起こして自分の部屋に帰らせるべきだ。そう思い、小春の肩に手を伸ばしかけた、その時。
「う、ん……」
小春の長い睫毛がかすかに震え、ゆっくりと瞼が開いた。
まだ夢うつつの、とろんとした瞳が、目の前にいる春太の姿を捉える。
次の瞬間だった。
「あ……! 春太さん!」
パッと。
まるで、曇り空から一瞬で太陽が飛び出してきたかのように。
小春の顔全体が、嬉しそうに、華やかに、ひまわりが開花するような満面の笑顔に変わったのだ。
「おかえりなさいませ! 私、うたた寝しちゃって……。今すぐご飯、温めますね!」
嬉しさが隠しきれないと言わんばかりに、弾んだ声で起き上がろうとする小春。
だが、春太は動けなかった。
その場に縫い付けられたように、完全にフリーズしていた。
(……なんだ、これは)
ドクン、と心臓が大きな音を立てて跳ね上がる。
ただ、目が合っただけだ。ただ、自分の帰宅を喜んで笑いかけてくれただけ。それなのに、胸の奥をラグビーボールで力任せに殴られたような、強烈な衝撃が春太を襲っていた。
頭が真っ白になる。
呼吸の仕方を忘れたように、喉がひきつる。
「春太さん……? どうかされましたか? お顔が赤いですよ……?」
不思議そうに顔を覗き込んんでくる小春。彼女の距離が、一歩、近い。ふわっと、甘い石鹸のような香りが鼻腔をくすぐる。
「……さわるな!」
春太は、小春が伸ばしかけた手をパッと振り払うようにして、一歩後ろに下がった。
「えっ……」
小春のひまわりのような笑顔が、悲しそうにしおれる。
その表情を見て、春太の胸にチクリと罪悪感が走ったが、今の彼にはそれをフォローする心の余裕など1ミリも残っていなかった。
「……部屋が、暑いだけだ。飯はいい。先にシャワーを浴びる」
それだけを早口で言い残し、春太は逃げるように自分の書斎へと駆け込んだ。
バタン、とドアを閉め、背中を預けてずるずると床にへたり込む。
バクバクと、うるさいほどに脈打つ心臓に手を当て、春太は荒い息を吐き出した。
「クソッ……あり得ない。あり得ないだろ……!」
冷徹で、合理的で、感情に流されたことなど一度もないこの俺が。
あんな、世間知らずで不器用なだけの女の笑顔に、ここまで動揺させられるなんて。
(認めない。絶対に認めないぞ。これは……ただの体調不良だ!)
暗い書斎の中で、春太は激しく乱れる己の心と、必死に戦い続けるのだった。