恋するつもりはなかった、僕らの夫婦物語。

「……美味すぎる」
翌朝、社長室のデスクについた春太は、パソコンの画面を睨みつけながら、昨夜の味を思い出して小さく悪態をついた。
一口だけ、本当に一口だけ食べて、あとは「口に合わない」と残して捨てるつもりだったのだ。それなのに、出汁の染みたジャガイモを口に含んだ瞬間、あまりの優しさとホッとする美味さに箸が止まらなくなってしまった。
結局、お代わりまでして綺麗に完食した。
小春は「わあ、お口に合ってよかったです!」と、まるで大事業を成し遂げたかのように大喜びしていた。
「いや、騙されるな。彼女はあの九条家の娘だ。没落寸前の実家を救うためなら、男の胃袋を掴むための猛特訓くらい、いくらでも積んでくるはずだ」
春太はトントンとデスクを指で叩き、冷徹な思考を取り戻そうとする。
あの健気な笑顔も、ひよこ柄のエプロンも、すべては「冷酷な夫の心をいかにして開くか」という緻密な計算に基づいた高度な演出。
「面白い。ならば、その完璧な演技、いつまで続くか見ものだな」
そう。春太は確信していた。
あんな「できた妻」の演技、3日も経てばボロが出る。お嬢様育ちが毎日慣れない家事などできるはずがないのだ。
だが、春太の予想は、4日目になっても、1週間が経っても見事に裏切られ続けた。
仕事の都合で、帰宅時間が夜の21時の日もあれば、深夜2時の日もある。
しかし、春太がどんな時間に帰ろうとも、玄関のドアを開けると必ず、あの淡いピンクのひよこ柄のエプロン姿がパタパタと走ってくるのだ。
「あ、お帰りなさいませ、春太さん!」
今日も今日とて、小春は満面の笑みで彼を迎えた。
時計の針は深夜1時を回っている。
「……君は、なぜいつも起きているんだ。家政婦には、夜20時以降の業務は免除しているはずだが」
「はい! でも私は家政婦ではなく、春太さんの『専属サポート(妻)』ですので!」
小春はえっへんと胸を張った。
「それに、春太さんが外で一生懸命戦って帰ってこられるのに、私だけ先にフカフカのベッドで寝ているなんて、バチが当たっちゃいます。あ、今日のご飯は、お疲れの胃に優しい『みぞれうどん』にしてみました!」
春太は、ネクタイを緩めるのも忘れて小春を見つめた。
よく見ると、彼女の手の甲に小さな絆創膏が貼ってある。
「……その手、どうした」
「あ、これですか? 大したことないんです! 大根をおろしている時に、ちょっと気合が入りすぎて、おろし金でシュッと……。でも、お味は美味しくできました!」
小春は恥ずかしそうに手を後ろに隠し、てへっと笑った。
(……大根おろしで怪我? 計算で、わざわざ自分の手を傷つけるか?)
(いや、それすらも俺の同情を引くための……)
「……バカなのか、君は」
気がつけば、春太は小春の手首を掴んでいた。
細くて、折れそうなほど華奢な手首。いつも冷徹なはずの春太の指先が、小春の体温に触れてピクリと跳ねる。
「えっ……?」
「怪我をしてまで料理を作るなと言っている。大体、お前は九条家のお嬢様だろう。なぜそこまでして、泥臭い家事にこだわる」
少し怒気を含んだ春太の声に、小春は驚いたように瞬きをした。
そして、すうっと静かに目を伏せる。
(ついに、本性を現すか……?)
春太が身構えた、その時。
「……実は、私、お嬢様らしいことって、何一つ上手にできなかったんです」
小春はポツリと、本当に申し訳なさそうに呟いた。
「ピアノもダンスも苦手で、お茶のお作法もいつも先生に叱られてばかりで……。九条家が大変な時も、私には何もできなくて、ただお飾りとして大鷹家に嫁ぐことしかできませんでした。だから……」
小春は顔を上げ、潤んだ瞳でまっすぐに春太を見つめた。
「せめて、お家にいる時くらい、春太さんの役に立ちたかったんです。私にできるのは、お料理を作って、『おかえりなさい』って言うことくらいだから……」
その瞳には、打算も、嘘も、春太をコントロールしようという下心も、本当に、1ミリも存在しなかった。
あるのは、ただ純粋で、不器用なほどの「真心」だけ。
「っ……」
春太の胸の奥に、鋭い衝撃が走った。
心臓がドクドクと不穏な高鳴りをあげる。
(なんだ、この感覚は……。胃が痛いのか? いや、違う。これは――)
「……もういい。うどんが伸びる。食べるぞ」
「あ、はい! 今すぐお持ちしますね!」
掴んでいた手首を慌てて離し、春太は逃げるようにリビングへ向かった。
差し出された熱々のみぞれうどんを口に運ぶ。出汁の優しさが五臓六腑に染み渡るのと同時に、胸の奥のモヤモヤがさらに広がっていく。
(計算じゃない……? 演技でもない、本気で、ただ俺のために……?)
冷徹夫の脳内に築かれた「鉄壁の警戒心」という名の城壁に、いま、目に見えない巨大なひびが入り始めていた。