恋するつもりはなかった、僕らの夫婦物語。

「社長。」

秘書の神崎は、静かに手帳を閉じると、小さくため息をついた。

「本日の予定ですが、十八時から経営戦略会議、十九時三十分から海外支社とのオンライン会議、二十一時から会食となっております。」

「十八時までに終わらせろ。」

「……会議を、ですか。」

「ああ。」

「理由を伺っても?」

春太はごく自然な顔で答えた。

「小春が夕飯を作って待っている。」

神崎は眼鏡の奥でゆっくりと瞬きをした。

「以前の社長でしたら、『会食があるから先に食べていろ』と仰っていましたが。」

「今は違う。」

「どのように違うのでしょう。」

春太はペンを置き、少しだけ口元を緩めた。

「一緒に食べる飯のほうが、美味い。」

その一言に、神崎は思わず笑みをこぼす。

「……変わりましたね。」

「ああ。」

春太も素直に頷いた。

「変えてもらった。小春に」



「お帰りなさいませ!」

玄関の扉が開くと、今日も変わらない足音が聞こえてくる。

ぱたぱた、と軽やかに駆け寄ってくる小春。

そして、見慣れたひよこ柄のエプロン。

「今日は早かったですね!」

「約束しただろう。」

靴を脱ぎながら、春太は穏やかに笑う。

「なるべく夕飯は一緒に食べると。」

「はい!」

小春は花が咲くような笑顔を見せた。

その笑顔を見るたびに思う。

あの日。

「愛するつもりはない」と言った自分を、本気で殴ってやりたい、と。

「春太さん?」

「いや。」

春太は小春の頭をそっと撫でた。

「今日も可愛いな。」

「えっ!?」

小春は耳まで真っ赤になる。

「い、いきなり何を……!」

「本当のことだ。」

「もう……!」

照れて顔を隠す小春が愛おしくて、春太は思わず笑ってしまう。

こんな自分になるとは、一年前には想像もできなかった。


夕食のあと。

二人はソファに並んで座り、温かい紅茶を飲んでいた。

テレビもつけず、ただ静かな時間を過ごす。

そんな何気ない時間が、今では何より大切だった。

「春太さん。」

「ん?」

「最近、お仕事は大丈夫なんですか?」

「問題ない。」

「でも、前より帰りが早くなりましたよね。」

「仕事のやり方を変えた。」

「え?」

春太は窓の外の夜景を眺めながら静かに話し始めた。

「昔の俺は、仕事だけが人生だと思っていた。」

「会社があれば、それで十分だと。」

「でも違った。」

ゆっくりと小春を見る。

「帰りたい場所があるから、仕事も頑張れる。」

「待っていてくれる人がいるから、一日を乗り越えられる。」

「それを教えてくれたのは、お前だ。」

小春は照れたように笑いながら首を振る。

「私は何もしていません。」

「してくれた。」

春太は優しく答える。

「毎日、『お帰りなさい』と言ってくれた。」

「疲れて帰ってきても笑って迎えてくれた。」

「それだけで十分だった。」

小春の瞳が少し潤む。

「春太さん……。」

「ありがとう。」

その一言に、小春は嬉しそうに笑った。



数日後。

休日の午後。

二人は近所の公園をゆっくり歩いていた。

広場では、小さな子どもたちが元気いっぱいに走り回っている。

「あっ。」

小春が足を止めた。

転びそうになった小さな男の子を、母親が優しく抱き上げている。

「可愛いですね。」

「そうだな。」

しばらく二人でその光景を眺めていた。

やがて春太が静かに口を開く。

「小春。」

「はい。」

「これから先も、お前と笑って過ごしたい。」

「……はい。」

「喧嘩もするだろう。」

「失敗もするだろう。」

「それでも。」

春太は小春の手をそっと握った。

「毎日『お帰り』と言い合える家を、一緒につくっていきたい。」

小春は何度も頷く。

「私もです。」

「それから……。」

春太は少しだけ照れたように笑った。

「いつか、家族が増えたら賑やかだろうな。」

その言葉に、小春の目が丸くなる。

「家族……。」

「ああ。急ぐ話じゃない。でも、お前となら、そんな未来も見てみたい。」

小春は涙ぐみながら微笑んだ。

「はい。きっと、毎日すごく幸せですね。」

「そうだな。」

春太は迷いなく答える。

「間違いなく、幸せだ。」




帰り道。

夕暮れの街を並んで歩く二人の影が、ゆっくりと伸びていく。

春太はふと立ち止まった。

「小春。」

「はい?」

彼はそっと小春の手を握り直す。

「最初に言った言葉を、もう一度訂正させてくれ。」

小春は不思議そうに首をかしげた。

春太は照れくさそうに笑う。

「『愛するつもりはない』なんて言った俺は、本当にどうかしていた。」

「今なら胸を張って言える。」

真っ直ぐに、小春だけを見つめる。

「俺は、お前を愛している。」

「今日も。明日も。十年後も。五十年後も。ずっと。」

小春の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

「私も……。春太さんを、ずっと愛しています。」

春太はその涙を優しく拭い、小春をそっと抱き寄せる。

街には夕暮れの優しい風が吹き抜けていた。

政略結婚から始まった二人。

愛するつもりはないと宣言した男と、それでも笑顔を絶やさなかった一人の女性。

遠回りをした二人だからこそ、たどり着けた幸せがある。

これから先も。

何度でも「お帰り」と「ただいま」を交わしながら。

二人は、同じ未来を歩いていく。