恋するつもりはなかった、僕らの夫婦物語。

「君を妻として迎えるが、愛するつもりはない。それだけは覚えておいてくれ」

高級ホテルの最上階ラウンジ。
夜景を一望できる一等席で、大鷹春太(おおたかはるた)は、目の前に置かれた婚姻届を長い指先でトントンと叩いた。
大鷹グループの若き敏腕社長。誰もが羨む容姿と冷徹なまでのビジネスセンスを持つ春太の瞳には、一切の温度がない。
この結婚は、資金難で落ち目の名家・九条家を救うための、完全な「政略結婚」だった。彼女はただの、大鷹家としての体裁を整えるためだけの「お飾り」だ。
「……はい、わかりました!」
しかし、返ってきたのは、悲壮感のカケラもない鈴の鳴るような声だった。
春太が怪訝に眉をひそめると、対面に座る九条小春(くじょうこはる)は、ほっと胸をなでおろしたような、一点の曇りもない笑顔を浮かべていた。
「よかった……! 実は私、お飾りの妻としてお役に立てるか、ずっと不安だったんです。愛さなくていいという『業務命令』であれば、私も気兼ねなく、春太さんのサポート役に徹することができます!」
「……は?」
春太の思考が、一瞬停止した。
(何を言っているんだ、この女は……?)
春太が想像していた「お高くとまったお嬢様」なら、ここでプライドを傷つけられて涙ぐむか、あるいは不満を漏らすはずだった。しかし、小春の目はキラキラと輝いている。まるで、難解なプロジェクトの仕様書を渡され、やる気に燃えている新入社員のような目だ。
「あの、確認ですが、お食事や身の回りのお世話などは、どこまで私が担当してよろしいでしょうか? 契約内容に含まれますか?」
身を乗り出して尋ねてくる小春に、春太は調子を狂わされながらも、ふん、と鼻で笑った。
どうせこれも、健気な妻を演じて自分の歓心を買おうという「計算」に違いない。
「……好きにすればいい。家政婦は雇っているが、君が何かしたいなら止めはしない。ただし、俺の私生活に踏み込むな。君に割く時間も、感情も、俺には一滴もない」
わざと突き放すように冷酷な声を出す。
だが、小春は「なるほど、自由裁量ですね!」と嬉しそうにメモを取る始末だった。

数日後。手続きを終え、二人の新婚生活(という名の同居生活)が始まった。
春太が買い与えた都心の超高級タワーマンション。
初日から夜遅くまで仕事を詰め込み、深夜0時を回った頃、春太はわざと足音を荒げて帰宅した。
(初日から夫に放置されれば、いくら計算高い女でも、少しは化けの皮が剥がれるだろう……)
そんな冷ややかな予測は、玄関のドアを開けた瞬間に打ち砕かれた。
フワリと鼻腔をくすぐったのは、出汁の効いた、どこか懐かしくて温かい匂い。
そしてリビングのドアが開き、パタパタと慌ただしい足音が響く。
「あ、お帰りなさいませ、春太さん!」
そこにいたのは、高価なブランド服ではなく、淡いピンクのひよこ柄のエプロン(しかもサイズが少し大きくて不格好だ)を身につけた小春だった。
お嬢様育ちのはずなのに、その袖口にはうっすらと小麦粉のような白い粉がついている。
「遅くまでお仕事、本当にお疲れ様です! 業務連絡の通り、お食事は用意しなくていいか迷ったのですが……。初日ですし、もしお腹が空いていたらと思って、不器用ながら作ってみました」
小春は少し照れくさそうに、はにかんだ。
テーブルの上には、少し形が不揃いな肉じゃがと、ツヤツヤのご飯、そして湯気を立てるお味噌汁。
春太は、ネクタイに手をかけたまま、完全にフリーズした。
冷徹なビジネスエリートの脳内が、この異常事態に激しくアラートを鳴らす。
(……待て。これは罠だ。俺を油断させ、繋ぎ止めるための、高度な心理戦に違いない)
「……言ったはずだ。君に構う時間はないと。こんなことをされても、俺の評価は上がらないぞ」
あえてドスの利いた声で言い放ち、小春を睨みつける。
普通の女性なら怯えて泣き出すか、怒り出す一言。
しかし、小春は「えっ?」と丸い目をさらに丸くしたあと、ポンと手を叩いた。
「あっ、すみません! 『評価』とかそういうのではなくて、ただ……春太さんが毎日すごくお忙しそうだったので、少しでも元気になっていただけたらな、と思っただけなんです。あ、押し付けがましかったですよね。お腹が空いていなければ、無理に召し上がらなくて大丈夫です!」
そう言って、小春はちっとも悲しそうにせず、むしろ楽しそうに「次はもっとお好みに合わせられるよう、リサーチしておきますね!」と微笑んだ。
下心が、全くない。
嫌味も、計算も、1ミリすら感じられない。
ただ純粋に、目の前の「夫」を労おうとする、圧倒的な善意。
「…………っ」
春太の胸の奥で、カチリ、と何かのスイッチが入る音がした。
冷徹な仮面の裏で、なぜか心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ねる。
「……一応、作ってもらった手前、一口だけは食べてやる。捨てるのは非効率だからな」
「はい! ありがとうございます!」
嬉しそうにキッチンへ弾んでいく小春の後ろ姿を見ながら、春太は乱れた呼吸を整えるように、強くネクタイを引き抜いた。
(おかしい。ただの飾りだ。好きになるはずがない。……絶対に、なるものか)
これが、のちに「鉄壁の冷徹夫」が、無自覚な妻の前に完全敗北するカウントダウンの始まりだとは、この時の春太はまだ、知る由もなかった。