陽炎に揺れる夢

保護者の方にきちんと説明できるよう、三枝さんからいくつもの資料を渡された朝比奈君は、きっとどうやって話そうか考えているのだろう。

私が隣にいることなど、すっかり忘れているらしい。

歩幅が大きくて、ついていくのも一苦労。

結局、私は朝比奈君を追うのを諦めた。

「つ、疲れた…」

家に着くと、私は玄関に座り込む。

新しい駅、新しい場所、新しい世界の話…。

――普通なら、関わらないはずの世界を、覗いてきてしまった。

リビングのソファーにドサッと身を投げる。

ソファーは私の重みを受け止めて、そのまま包み込んでくれた。

リリリリリ リリリリリリ……

ほとんど鳴ったことのないスマホが、着信を告げている。

(家族に何かあったのかと思って、慌てて画面を確認すると、朝比奈君からだった)

「も、もしもし?」

朝比奈君から電話なんて、初めてだ。

「どうしたの?」と声をかけると、

「ご、ごめん。俺、気づいたら家にいたんだ。事務所出てから、あんま記憶なくて……」

「遠野に、ちゃんとお礼言えてなかったんじゃないかと思ってさ」

ふふっ……。

思わず、笑いが込み上げてしまった。

こんなに慌てた朝比奈君の声を聞くのは、初めてだった。

「えっ? なに? 笑ってる? 俺、なんか変なことしてた?」

「あはははっ」

自分でも理由がよくわからないのに、ますます可笑しくなって、私は大きな声で笑ってしまう。

「えー、なんだよ。何がそんなに可笑しいのか教えてよ」

はははははっ……。

すると、朝比奈君もつられたように笑い出した。

緊張から解き放たれたせいか、私たちは、しばらく声をあげて笑い続けた。

「ごめん、ごめん。なんだか、急に笑いが止まらなくなっちゃって。緊張が解けたからかな」

少し落ち着いてから、私はそう言った。

「俺も、つられちゃったよ。久しぶりに、声出して笑った」

「なんか、いいな。こういうの。ストレス発散だ」

「本当だね」

ソファーに背中を押しつけて、天井を見上げる。

はぁ……。

大きく息を吸って、ゆっくり吐き出した。

「すごい一日だったね」

「私が、絶対に関わらない世界に足を踏み入れちゃったよ」

「そうだな。俺は、関われない世界だと思ってた。諦めてた場所だ」

「でも、向こうから俺を見つけてくれた」

「ありがとう。遠野のおかげだよ」

「三枝さんって、すっごく良い人だったね。
朝比奈君のことを、本当に考えてくれているんだなって思ったよ」

「うん。本当に良い人だったね」

「朝比奈君のこと、救い出してくれるよ。絶対に」

「うん」

「私ね、三枝さんの話を聞いて思ったの」

「何?」

「三枝さん、『少しだけ怖くなくなればランウェイを歩ける』って言ってたの、覚えてる?」

「うーん……ごめん、よくわからない」

「もしかしたら、活躍しているモデルの人たちも、人前に出るのは怖いと思ってるんじゃないかなって」

「皆が緊張しないわけじゃない。ちょっとの勇気を振り絞って出ているのかもしれない」

電話の向こうで息を呑む音が聞こえた。

「朝比奈君は、お母さんが厳しくて『完璧にやらなくちゃ』って思うようになっちゃったんだよね」

「それって、お母さんが朝比奈君にかけた呪いだと私は思ってたけど、本当は、朝比奈君が自分に呪いをかけちゃったんだね」

朝比奈君は、何も言わず静かに私の話を聞いてくれている。

「完璧にやるって思うことって、逆に完璧にできなくしてるんじゃないのかな」

「できないからこそ、怖いからこそ、
一生懸命頑張るし、勇気も出せる」

「だから…」

(朝比奈君の呪いが解けますように…)

「怖くていいんだよね」

しばらく沈黙が続いた。

ふぅ――

朝比奈君の息が漏れる音が聞こえた。

「そうだな。遠野の言う通りだ」

「俺はきっと、できない自分を見られるのが嫌だったんだ」

「でも、できないからこそ、人間って助け合えるんだよな」

「ふふふっ。 『人という字は』って、昔のドラマでもあったよね」

さすがに恥ずかしくて、金◯先生の口調は真似できないけど、頭の中ではあのシーンが浮かんでいる。

「それに、今の朝比奈君だからこそ、私の存在に気づいてくれて、私をクラスの一員にしてくれたんだよ」

「だから、悪いことばかりじゃないんだ」

「気づいてるか、遠野?」

「えっ? 何が?」

「今の遠野が話してくれたこと、そのまま遠野自身にも当てはまるからな」

私は思わず息を呑む。

(今、私が言ったこと…)

「完璧じゃなくていい、怖くたっていい」

「教室で隠れていた俺を見つけて、手を差し伸べてくれたのは、今の遠野なんだよ」