陽炎に揺れる夢

「はい、オリオン・プロモーションです」

「……」

「もしもし?」

私はこの日のために書いた原稿を、ぎゅっと握りしめた。

「あ、あの……そちらに、スカウト担当の三枝 大樹(さえぐさ・ひろき)さんはいらっしゃいますか」

声が震えそうになるのを必死に抑えながら、なんとか言葉を繋ぐ。

「三枝ですね。お名前を伺ってもよろしいですか?」

ハッとする。

自分の名前を言っても、きっと伝わらない。

「……ボータンと言っていただければ、わかると思います」

「ボータン様ですね。かしこまりました。今お繋ぎいたしますので、少々お待ちください」

電話の向こうから、電子音のメロディが流れ始めた。

ふぅ……。

私は、大きく息を吐く。
すると同じタイミングで、

ふぅ……。

と、朝比奈君も息を吐いた。
どうやら、今まで息を止めていたらしい。

その仕草を見て、少しだけ気持ちが楽になった気がした。

「はい、お待たせしました。新人開発部です」

メロディが切れると同時に、男性の声が聞こえた。

「あっ、あの、三枝 大樹さんですか? わた――」

「申し訳ありません。三枝は今、外に出ておりまして。折り返しご連絡するように伝えましょうか?」

不在を告げる言葉だった。

そんな可能性は考えていなかった。頭の中が真っ白になってしまって、言葉が出てこない。

「……あ、少々お待ちください。今、三枝が戻ってきました。代わりますね」

そう言われて、また電子音が鳴り響く。

ジェットコースターに乗っているみたいに、感情が上がったり下がったりして、忙しくて、身体の奥がじんわりと熱を帯びていく。

心臓だけが一定のリズムを刻んでいた。
ものすごい速さだけど。

「お待たせしました。三枝です」

「あっ、あっ、あの……」

「インスタにメッセージを送っていただいて、ありがとうございます。 あの、私、ボータンといいます」

言えた。

とりあえず、自分が何者かを伝えることはできた。

ここさえ越えてしまえば、大丈夫な気がした。

「ボータンさん! ご連絡ありがとうございます。こちらこそ、返信をいただけて嬉しいです。
インスタに写っている方には、もうお伝えいただけましたか?」

私は、隣にいる朝比奈君をちらりと見る。

「はい。今、その人も隣にいます」

「それは良かった。では、お電話を代わっていただいてもよろしいでしょうか?」

固まってしまった朝比奈君の様子を見て、私は小さく息を吸い、朝比奈君に向かってにっこりと微笑んだ。

小さく頷く。

(私に任せて)

「すみません。彼は今、直接お話しするのが難しくて……」

「私が代わりにお話しさせていただいても、よろしいでしょうか?」

「……それは、どういったご事情でしょうか?」

少しだけ、間があった。

でも声の調子は、変わらず落ち着いている。

「えっと……電話だと、少し説明が難しいのですが……」

「写真に写っている人、顔を隠していますよね」

「ええ。ご本人だと特定されたくない、ということですか?」

「……はい。でも、それは、恥ずかしいとか、静かに暮らしたいとか、そういう理由ではなくて……」

私は、言葉を選びながら続ける。

「彼、小さい頃から、モデルという仕事に憧れていたんです」

「モデルになるために、牛乳をたくさん飲んだり、スタイルが良くなるようにって、色々頑張ってきたって言っていました」

「でも……」

そこで、言葉が少し詰まる。

電話の向こうで、三枝さんは、何も言わず、急かすこともなく、静かに待ってくれている。

「すみません、三枝さん」

「三枝さんは、なぜ、私に何度もメッセージを送ってくださったんですか?」

私は、先に三枝さんの話を聞きたくなってしまった。

「えっ? ……あ、はい」

急な話題の転換に、三枝さんは少し驚いたような声をあげた。

少しの沈黙。

その間が、きちんと誠意を持って対応してくれているように感じられた。

「ボータンさんのインスタが、社内で話題になっていまして、周りの女性社員からよく名前を聞くようになり、私も拝見させていただきました」

「そして、彼を見た瞬間、世界で活躍できると思ったんです。

「私は、長年、モデルになれそうな子に声をかけてきました」

「我が社が育てて、世界で売り出しているモデルの中にも、私が声をかけさせてもらった人が何人もいます」

「その自分の目と直感を、私は信じているんです」

「だから、あなたの隣にいる彼も、一流のモデルになれる」

「私は、そう感じています」

朝比奈君を見ると、複雑そうな顔をしていた。
嬉しいのだろう。でも、その分、悔しさもある……。

私は、その光景を、どうしても正直に伝えたくなった。

「三枝さん」

「私の隣にいる彼の顔は、今、とても嬉しいという気持ちと……それと同じくらい……いえ、もしかしたら、もっと強いかもしれない……悔しい、という気持ちが、同時に浮かんでいます」

指先が、震える。

彼の気持ちを思うと、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。

喉が詰まって、言葉が続かなくなった。

それでも――

「あの……すみません……」

小さく、息を吸う。

「彼に……力を、貸してもらえませんか……。
彼を……助けてあげてください……。お願いします……」

声の代わりに、涙が滲んで、視界が歪んでいく。

気づけば、祈るみたいに、「助けて」という言葉しか、もう出てこなくなっていた。

私は通話中のスマホを耳から外す。

「ごめん、朝比奈君……」

「私……うまく、できなかった……」

思わず、そう口にしてしまう。

ちゃんとしたかったのに。ちゃんと、伝えたかったのに。

朝比奈君は、

「大丈夫だよ。ありがとう」

そう言って、そっと微笑んでくれた。

その時――

「もしもし。あの、直接お会いできませんか?
できたら、ボータンさんもご一緒に。場所をご指定いただければ、こちらから伺います」

電話口から、三枝さんの声が響いた。

「えっ……? いいんですか?
私……あの……」

「ゆっくりで大丈夫ですよ。学生さん、ですよね?」

「土日でも私は構いません。明日か、明後日で、ご都合のいい時間はありますか?」