名もなき空に、青い風が吹く

 部屋から漏れる灯りを背に受けながらわた
しは鉢植えの前にしゃがむ。振り子のように
大きく如雨露を揺らしながら水をやっている
いっくんの影が、ベランダに映り込んでいる。

 「あたた」

 ふいに声が聞こえて、わたしは隣を見上げ
た。とんとん、と、お爺ちゃんのように腰を
叩いているいっくんに首を傾げた。

 「なんか今日、疲れてるね」

 そう声をかけると、いっくんは水をやって
軽くなった如雨露を持ったまま、上体を後ろ
に逸らす。

 「さんざん赤鬼コーチにしごかれたからね。
体が悲鳴上げてるんだ」

 言いながら、よっ、と体を元に戻したいっ
くんにわたしは「ああ」と頷いた。

 「確か鬼みたいに怖いから、赤鬼コーチっ
て、みんなに呼ばれてるんだよね?いっくん、
水泳部のエースなのにしごかれちゃうんだね」

 「この前の試合でタイムを伸ばせなかった
からね。ライバルに差をつけるために、毎日
限界まで自分を追い込まないといけないんだ」

 「うわ、きびしー。毎日限界までやらされ
たら、体壊れちゃうよ。ホントに赤鬼みたい」

 「ははっ、確かに鬼みたいに厳しいけど、
人情味があるからメンタルはやられないんだ
よね」

 「人情味?」

 「うん、『人生は悲喜こもごも』が口ぐせ
でさ、部員がめげてるとふわっとためになる
こと言ってくれるんだ。花を愛でろとか空を
見上げろとか、色いろ語ってくれる。お陰で、
花の世話をすることになったけどそれなりに
癒されてるし、ここまで強くなれたのは間違
いなく、赤鬼コーチがいたからだと思ってる。
感謝してるよ」

 「そっか、いっくんが感謝するくらいだか
ら、きっといい人なんだね」

 そう口にすると、いっくんは淡く笑んで空
を見上げた。

 「どんな人の上にも空は平等に広がってる
んだよな。悲しい人の上にも、苦しい人の上
にも、幸せな人の上にも。だから、空を見上
げると、自分の悩みがちっぽけに思えてくる。
タイムが伸びなくても、失敗しても、どうっ
てことないやって気になってまた前を向ける」

 「それも、赤鬼コーチが言ってくれたの?」

 「正解」

 にっと、いっくんが白い歯を見せる。その
顔はいつもの彼のもので、わたしは無意識に
頬を緩めた。部屋の灯りを背に浴びたわたし
の影が小さく揺れる。夜風がやさしく黄色い
花々を撫でつける。