名もなき空に、青い風が吹く

 「ちょっと待ったぁ!!」

 視界の端に映った獲物を逃がすまいと勢い
よく振り返った直後、わたしの頭からぽちゃ
んと何かが落ちる。え?と思って耳の上辺り
を濡れた手で探ると、そこに付けていたはず
のバレッタがなかった。

 「うそっ、どうしよう!!」

 伯母さんがくれたバレッタを川の中に落と
してしまったことに気付いたわたしは、網を
握りしめたまま、ざばざばと下流へ向かって
走り始める。水の中を泳ぐように転がってい
くそれはすばしっこくて、まるで生きている
ようだった。

 「どうしたの!?」

 背中から大翔の声が聞こえたけれど答える
余裕なんかない。どうしよう。大事なバレッ
タなのに!胸の奥が痛いくらいぎゅっと縮む。

 軽くパニックを起こしていたわたしは次の
瞬間、丸い小石を踏んでつるりと滑ってしま
った。ばしゃん、と体が冷たい水の中に沈む。
膝下だった川の水が尻もちをついた途端、胸
まで一気にせり上がってくる。

 すると、わたしの体に信じられないほどの
水圧がかかった。立っている時はほとんど水
の力を感じなかったのに、体の自由がきかず
どんどん押し流されてしまう。体勢を立て直
して浅いところに戻ろうとしたけれど、無理
だった。足を伸ばして川底の砂利を探したけ
れど、見つからなかった。

 ダメだ、深い。

 そう思った時には、視界から空の青も木々
の緑も消えていた。目の前が無数の白い泡に
包まれる寸前、大翔がなにかを叫んだ気がし
たけれどその声は水音に掻き消されて聞こえ
なかった。

 それからのことは、ぼんやりとしか覚えて
いない。水のうねりに紛れて響く心臓の音と、
木の葉のように手足が水に弄ばれる感覚。息
を吸いたくても吸えなくて、頭の中がじわじ
わと白くなっていく。

 わたし、このまま死ぬのかな。

 そんな思いが脳裏をかすめた刹那、ふいに
温かな手が、ぎゅっ、とわたしの手を掴んだ。
そのまま、もの凄い力で体を上に押し上げら
れる。

 「しっかり岩を掴んでっ!!」

 力強い声が水の中から聞こえて、わたしは
必死に硬い岩にしがみついた。ただ助かりた
くて、息をしたくて、夢中でゴツゴツした岩
にしがみついた。わたしの体を押し上げてく
れたのがいっくんの手だったと気付いたのは、
楽に呼吸が出来るようになってからのこと。