ねえ、はやく降参してよ。 ――同じ苗字になっても、まだ足りない。甘くて焦れったい心理戦を続ける夫婦。


 ハルは明日、遠いロンドンの空へと飛び立つ。

 昨日、東京本社への出社と送別会を終えた彼は、今日は有休を取っている。
 それに合わせ、私も今日から二日間、サロンに休みをもらっていた。

 丸一日一緒に過ごせる、最後の日。
 昨晩も夜更かししてしまったけれど、早くにセットした目覚ましの音で、揃って瞼を擦りながら起き上がった。

 ◇

 オーナメント柄のレースカーテンを(くぐ)り抜けた朝陽が、フローリングへ美しい模様をつくっている。

 シャキッ、シャキッ。

 二人の家に、私の手元から鳴る軽やかな音だけが響く。

 美容師として就職したとき、父と弟がお祝いで買ってくれたこのハサミ。
 手にしっくりと馴染む重みと、家庭用ではあるものの滑らかで上質な切れ味を持っている。

 サロン以外でハルの髪をカットするのは、初めてだ。

 部屋の中央に置いたダイニングチェアに腰掛け、いつものように瞼を閉じている彼。
 真夏の強い光が、その頬に、長い睫毛の影を落としている。

 幾度となくこの手で切り揃えてきた黒髪を見つめる。

 ロンドンの美容院事情は、どうなっているんだろう。
 次はどんな人が、この髪に触れることになるのだろうか。

 そんな想像をしたら、胸の奥が痛んだ。