ねえ、はやく降参してよ。 ――同じ苗字になっても、まだ足りない。甘くて焦れったい心理戦を続ける夫婦。

 ◇

 深夜のリビング。
 マグカップを温めるためだけに入れておいた熱湯を、シンクに流し捨てた。
 白く立ち上る湯気に煽られる。

 そして、ガラスポットの中へ、ノンカフェインのジャスミンティーの茶葉を入れた。
 適温のお湯を注いでいくと、いつもの上品な香りが広がる。

 赴任の話を伝えてから、今日で一週間。
 部屋の隅には、荷物を送るための段ボール箱が少しずつ増え、現実として積み上がっていた。

 わかっている。
 もしついてくる気があるのなら、マナだってそろそろ手続きを始めなければ間に合わない。

 それでも、動かないということは――。

 ポットの中でゆっくりと開いていく茶葉を無心で見つめるうち、次第に自分の体温まで冷えきっていくような錯覚に陥る。

 そのとき。
 背中へ、柔らかな重みが寄りかかってきた。

 腰に回された細い腕。
 背中に顔を押し付けるようにして、マナがしがみついている。

 視線を落とすと、俺のシャツを掴む指先が、小さく震えていた。


「ハル……ごめん……」


 茉莉花(ジャスミン)の香りが漂う、静寂の部屋で。
 消え入りそうな声が、残酷なほどまっすぐに落ちてきた。