ねえ、はやく降参してよ。 ――同じ苗字になっても、まだ足りない。甘くて焦れったい心理戦を続ける夫婦。


 どのくらい時間が経ったか、わからなかったけれど。
 ポケットの奥で鳴った低い振動音に、意識を引き戻された。

 発光する画面に浮かび上がったのは――『茉奈《マナ》』。

 愛しい名前。

「…………」

 すぐにタップし耳元に当てるけれど、喉が張り付いて声が出ない。

 俺が何かを伝えるより先に、震える掠れ声が届いた。

『……お願い……帰ってきて……』

 肺の空気が全部押し出されるように、息が苦しくなった。

 レザー調のリクライニングチェアから勢いよく立ち上がると、ガタンと鈍い音が響いた。
 無人レジで会計を済ませ、すぐに店を後にした。

 湿気を含んだ重い夜風を切り裂きながら、アスファルトを蹴る。
 シャツに汗が滲むのも、息が上がるのも、(いと)うべきことではなかった。


 家に着き、しんとした寝室に足を踏み入れる。
 顔を上げたマナの頬には、濡れた跡がくっきりと残っていた。

 彼女はひどく安堵したような吐息をこぼすと、その力ない腕を俺の腰へと回した。
 そして、心音を確かめるように、胸元へ耳を当てる。

 夜気を含んだ服越しに、彼女の高い体温と、どこか頼りない鼓動が伝わってくる。
 何も言えず、ただその熱に埋もれていくことしかできなかった。