ねえ、はやく降参してよ。 ――同じ苗字になっても、まだ足りない。甘くて焦れったい心理戦を続ける夫婦。


「ロンドンに、赴任が決まった。最低、二年」

 帰宅してからずっと、不自然なほど静かだったハルの口から、その理由が明かされた。

 ロンドン。イギリスの首都。
 地図や映像の中でしか知らない、遠い異国の地。

 唐突な話に、頭の芯が痺れていくような感覚をおぼえる。

 やっぱり商社って、海外赴任とかあるんだ、とか。
 まだ若いのに声がかかるなんて、期待されてるんだな、とか。
 混乱する自分を宥めるように、そんなことばかりを考えた。

「毎日電話とかすれば……乗り越えられるかな?」

 思考が追いつかないまま、こぼした言葉。
 それが、ハルをひどく怒らせてしまった。

「結婚だって、俺が押したから流されたんじゃないの」

 刺すような、冷たい声。
 違う。そんなわけ、ない。

 否定する間もなく、背を向けられた。

 やがて廊下の奥から響いた、玄関の重い扉が軋み、閉まる音。
 ハルは、夏の夜へと消えていった。

 彼の気配が残るソファから、立ち上がることができなかった。

 さっき向けられた、冷たい瞳。
 あれは昔、別れを告げられたときと同じだった。

 視界が滲み、どこにも焦点が合わないまま、記憶が呼び覚まされていく。