ねえ、はやく降参してよ。 ――同じ苗字になっても、まだ足りない。甘くて焦れったい心理戦を続ける夫婦。

 ◇

 クミンとコリアンダーの香りが、リビングいっぱいに広がっている。

「今日ね、常連さんが小学生の娘さんを連れてきてくれて、カットしたの。その子、最初はすごく緊張してたんだけど、仕上がりを見たら目をキラキラさせて喜んでくれて……」

 マナの得意料理のひとつである、色鮮やかな夏野菜が乗ったキーマカレー。
 それをスプーンで口に運びながら、弾むような声を聞く。

 楽しそうに一日の出来事を語る、穏やかな笑顔。
 それを前にすると、どうしても喉が詰まった。

 味わう余裕を持てないまま、カチャカチャと陶器を鳴らし、相槌を打っていた。

 ◇

 食後。真っ暗なテレビ画面に、ソファに沈み込む自分の輪郭が映っている。

 なんて伝えたらいいか。
 どんな反応をするだろうか。

 マナは海外旅行の経験すらなく、パスポートも持っていない。
 そもそも、ロンドンは俺も初めて足を踏み入れる土地だ。

 彼女には、大切にしている美容師の仕事がある。
 当然、悩むだろう。

 でも、俺は正直――ついてきてほしい。
 二年も離れるなんて、考えられない。