ねえ、はやく降参してよ。 ――同じ苗字になっても、まだ足りない。甘くて焦れったい心理戦を続ける夫婦。


「資料は予定通り、お渡しできそうですけど」

 扉を閉めながら、作業の進捗を伝える。
 上司は「ああ、その件じゃなくて」と振り返り、立ったまま話し始めた。

「こんな場所で悪いが、急ぎなんだ。後から正式に通達があると思うけど」

 それは、唐突だった。


「ロンドンに行ってほしい。期間は、最低二年だ」


 一瞬、思考が停止する。

 空調の唸り声が、不自然に大きくなった気がした。

「赴任……ですか?」

「そうだ。ロンドン支社のチームにいる一人が、身内の事情で急遽帰国することになってな」

 総合商社でキャリアを積む上で、海外駐在の経験は圧倒的な意味を持つ。
 もちろん、チャンスがあれば行きたいとは望んでいた。
 しかし今回、急な欠員という事情もあり前振りが一切なかったため、心の準備はまるでできていなかった。


 マナには――どう切り出すべきか。


 いつかそういうことがあるかもしれないと、伝えたことはある。
 けれど、いざそうなったとき具体的にどうするかまでは、話し合えていなかった。

「長くて五年……かな。急で悪いが、一か月後には飛んでもらいたい。ビザの手続きはアシスタントから聞いてくれ」

「……分かりました」

 辞令である以上、当然そのまま受け入れる。
 ただ、どうしたものかと心が波立った。