ねえ、はやく降参してよ。 ――同じ苗字になっても、まだ足りない。甘くて焦れったい心理戦を続ける夫婦。

 ◇

 自宅へと帰り着き、軽く入浴を済ませると、すぐに布団へ潜り込んだ。

「明日から仕事なのに、遅くまでごめんね」

 そう言って、マナは俺の胸元に顔を埋めてきた。

 彼女は、心が揺れているときや、何かに想いを馳せているとき――こうして俺の心音に耳を澄ませる癖がある。
 このときばかりは何も気づかないふりをして、ただ静かに抱き寄せるようにしている。

 職業柄、いつも丁寧に手入れされている艶やかな黒髪へ、一定のリズムで指を通していく。

「お義母さんは、最近どうしてるかな?」

 俺の母親について、切り出される。

「何の知らせもないってことは、元気なんじゃね」

 マナと母親は、仲がいい。
 うちは一人息子なので、娘ができたようで嬉しいらしい。

「じゃあ……お義父さんは?」

「……さあ?」

 父親は、繰り返し転勤のある仕事をしている。
 物心つくまでは母親と俺も赴任先についていったらしいが、母親が看護師の仕事を再開し、俺も小学校に入ると、単身赴任を選ぶようになった。
 今もどこかの地方に出向しており、母親とは別々に暮らしている。

 離婚するほどではないけれど、互いへの関心はとうの昔に失われている二人。

 時間と距離は、夫婦の愛を簡単に冷めさせる。
 彼らを見て育った俺は、そう確信していた。

 だからマナの父を見て、あんなふうに残り続ける愛があることに、静かに驚かされた。
 そして同時に、俺とマナも――これからどれだけ時間が経っても、互いに愛し抜くことができるんじゃないかと思えた。

 とはいえ、義父のように『届かない距離』を受け入れることなど、俺には到底できない。
 ただ、離れたくない。いつも触れていたい。
 だから、マナとの時間が一秒でも長く続くよう、どうか彼女を守ってほしい。
 写真の中で微笑む義母と向かい合うたび、そんな身勝手な願いを密かに伝えてしまうのだった。


「……ハル」

「なに?」

「…………」

 小さな呼びかけに返事をしたものの、続きが聞こえてこない。
 視線を向けると、腕の中にいる彼女は瞳を閉じ、すこやかな寝息を立てていた。

 額にそっとキスを落とし、手を伸ばして枕元の小さな間接照明を消す。

 暗闇の中で伝わってくる、たしかな体温を感じながら、ゆっくりと眠りについた。