ねえ、はやく降参してよ。 ――同じ苗字になっても、まだ足りない。甘くて焦れったい心理戦を続ける夫婦。


 水が混ざり合う音だけが、くぐもって耳に響く。
 無重力の中を滑るように、搔き分けて進む。

 朝、サロンへ向かうマナを見送ったあと。
 溜まっていた仕事を自宅で少し片付けてから、馴染みのスイミングクラブへと足を運んでいた。

 幼少期から大学まで続けていた水泳。
 選手を目指していたわけではないが、学校の部活には入らずにスクールへ通い続けていた。
 水の中に溶け込んでいる時間が、ただ純粋に好きだったのだ。

 ◇

 シャワーを浴びて着替えを済ませ、エントランスに向かっていたときだった。

「おっ? 幹本か?」

 受付の近くで、背後から声をかけられた。
 振り返ると、よく日焼けした肌にスポーツウェアを合わせた男が立っている。

「……あ。お疲れ様です」

 大学時代に世話になっていた専属コーチだった。
 十歳ほど年上で、やたらとテンションが高く暑苦しい反面、元選手だけあって的確な指導をしてくれる人だった。

「久しぶりだなあ。最近よく来てんの?」

「週末、たまに」

「おーおー」

 バンバン、と遠慮のない力で肩を叩かれる。
 少し高めの声と響く笑い声は、変わっていない。

「なーんか、すっかり毒気が抜けたなあ? 昔はもっとこう、触れたら切れるような鋭さがあっただろ」

 わざとらしく目を細めたあと、何かを見透かすように、俺の左手へと視線を滑らせた。
 シルバーリングが光る薬指を見て、『なるほどな』と言わんばかりに口角を上げる。

 図星を突かれ、小さく苦笑した。

 無理もない。このコーチの指導を受けていたのは、マナと離れていたあの暗黒期だ。
 行き場のない執着も、焦燥も、苛立ちも。自分の中に渦巻く黒い感情をすべて底に沈めるように、ただ息が苦しくなるまで無心で水を叩き続けていた。
 それに比べれば、今の俺はひどく穏やかに凪いでいる。

 微かに塩素の匂いを残したまま駅へ向かい、マナと落ち合った。