ねえ、はやく降参してよ。 ――同じ苗字になっても、まだ足りない。甘くて焦れったい心理戦を続ける夫婦。


 玄関の奥で、ゆっくりと鍵の開く音がした。

 やがて、聞き慣れた足音が廊下から近づいてくる。
 その足取りは、照明を落とした寝室へとまっすぐに向かってきた。

「ただいま」

 暗がりの中、そっと声をかけられる。

「…………」

 柔らかなガーゼケットに包まった背中を向け、動かずにいた。

「マーナ」

 寝たふりだとわかっているハルが、耳元に吐息を落としてきた。
 その穏やかな声色から、後ろめたい出来事はなかったことがわかり、少しだけ安堵する。

 それでも、私の中にある小さな棘のようなものは、すぐには消えてくれない。

「マナちゃん。帰ってきたよ」

 唇を直接耳に押し当てられ、思わずピクッと肩が跳ねてしまった。
 その反応を面白がるような、小さな笑い声が降ってくる。

 鼻先を掠める、ほんのりとしたウイスキーの香り。
 ハイボールでも飲んできたのだろう。

「……あっち行って。酔っ払い」

 頭までケットを引き上げ、すっぽりと潜り込んで防御する。

「酔ってないんだけどなー」

 間延びした声は遠ざかり、バスルームの方へと向かっていった。