ゆっくり紡ぐ、愛の言葉

末山愛斗は、生まれつきヌーナン症候群という障害を抱えていた。身長は周りの同年代よりも低く、体の線も細い。心臓にも少し弱い部分があるため、激しい動きは避けなければならず、言葉を選んで話すのにも、人より少しだけ時間がかかる。何をするにも「ゆっくり」が基本の彼の日常は、それでも穏やかに流れていた。
朝になると自分の部屋を出て、決まった時間に送迎バスに乗り、障害者支援施設へと通う。施設では事務補助や軽作業を担当し、周りの職員や仲間たちは皆、愛斗のペースに合わせて接してくれる。土日は定休日で、家でゆっくりと体を休める時間に充てるのが、これまでの当たり前だった。
そんな愛斗には、一つだけ心からときめく存在があった。歌手の辛島美登里だ。テレビから流れる澄んだ歌声、ラジオから届く柔らかい言葉、時にはネットで探してライブ映像を見ることもある。美登里の歌は、まるで心の奥にそっと手を伸ばしてくるようだった。自分のように「普通と少し違う」体で生きていくことの不安や、時に感じる孤独を、そっと包み込んでくれるように感じる。
だが愛斗にとって、美登里はあくまで「画面の向こう側」の人だった。「この歌声を聞けるだけで十分だ」「実際に会えるなんて、夢にも思わない」――そう自分に言い聞かせ、テレビの前で拍手を送り、CDを大切に棚に並べ、ライブの情報を見ては「遠い世界だな」とため息をつく。これからもずっと、彼女の姿を画面で見て、声をスピーカーから聞くだけの関係なのだと、愛斗は当たり前のように信じていた。
ある休日、愛斗は気分転換に近くのショッピングモールへ出かけた。中に入り、いつものようにダイソーで必要なものを探していると、文房具の棚の前に立つ女性の姿が目に留まった。シンプルな私服を着ていたが、その横顔、雰囲気は見間違えようもない。辛島美登里だった。
彼女は棚に並んだボールペンを眺めているようだった。愛斗も何気なく同じ棚に手を伸ばすと、二人の指先がぱちりと軽く触れ合った。
「あっ、ごめんなさい」
愛斗は慌てて手を引っ込める。
美登里は柔らかく笑って首を振った。
「いえいえ、大丈夫ですよ」
緊張で胸が高鳴るのを抑えながら、愛斗は思い切って口にした。
「あの… 辛島美登里さんですよね? 俺、大ファンなんです」た
美登里は少し驚いたように目を瞬かせ、すぐに優しい笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。それで、お名前は何とおっしゃるんですか?」
「末山愛斗です」
ゆっくりと、はっきりと答える。
「そうなんですね、愛斗くん」
そんな風に名前を呼んでもらえるなんて想像もしていなかった。二人が少し話していると、通路の奥から車椅子に乗ったお年寄りがゆっくりと近づいてきた。美登里は道を空けようと少し後ろに下がったが、足元が棚の一部に引っかかり、体のバランスを崩してよろけた。
「危ないっ」
愛斗はとっさに手を伸ばし、美登里の体をしっかりと抱き留めた。胸元に柔らかな感触が伝わると同時に、慌ててすぐに腕を解き、通路の邪魔にならない場所へと移動した。
「ご、ごめんなさい… いきなり抱きつくような形になってしまって…」
顔が熱くなり、愛斗は慌てて頭を下げる。
美登里は手で口元を押さえ、くすりと笑った。
「大丈夫、助けてもらったのは私の方です。ありがとう」
それから少し間を置いて、彼女は柔らかい声で提案してくれた。
「よかったら、この近くにある喫茶店で少しお話しませんか? お礼も兼ねて」
愛斗は驚きながらも、心が躍るような感覚に包まれ、すぐに頷いた。
「はい、ぜひお願いします」
二人はモール内にあるサンマルクカフェへと向かい、窓際の席に座った。メニューを開き、愛斗はベルギーチョコココアを、美登里はアメリカンコーヒーとチョコクロワッサンを二つ注文した。
飲み物が運ばれてくると、自然と話が弾み始めた。愛斗は緊張しながらも、自分が生まれつきヌーナン症候群を抱えていること、体のこと、言葉がゆっくりなこと、支援施設で働いている日常のことを、少しずつ丁寧に話した。
美登里は黙って最後まで聞いてくれ、愛斗が言い終わると、柔らかい目でまっすぐに見つめて言った。
「そんなこと、全然気にしないよ。愛斗くんは愛斗くんのままで、それでいいんだから」
その言葉に、愛斗の胸がじんと熱くなる。
「ありがとうございます…」
「それに、愛斗くんって、とてもかっこいいと思う」
突然の言葉に、愛斗は耳まで赤くなり、慌てて頭を下げた。
「ありがとうございます…」
それからさらに二時間ほど、二人は時間を忘れて話し込んだ。やがて美登里のスマートフォンが鳴り、彼女は少し電話で話した後、愛斗に向き直った。
「家族と一緒に来ていたので、連絡が入りました。こちらに来るように言っています」
愛斗は慌てて手を合わせた。
「家族の方と一緒だったんですね。邪魔をしてしまって、すみません」
美登里は笑って手を振った。
「大丈夫ですよ。私、一人で行動するのも好きなんです」
「そうなんですか…」
愛斗がまだ美登里から目を離せずにいると、彼女はテーブル越しにそっと手を伸ばし、愛斗の指先に柔らかく触れた。
「愛斗くん… まだ一緒にいたいな。家族にお願いできないかしら。実は、私、一目惚れしちゃったみたい」
心臓が大きく跳ね上がり、愛斗は自分の耳を疑った。ゆっくりと言葉を選び、まっすぐに美登里を見つめて答える。
「俺も… もっと一緒にいたいです」
美登里は嬉しそうに目を細め、指を絡めるように愛斗の手を握り返した。
「そうなんだ… よかった」
窓の外には穏やかな日差しが差し込み、愛斗にとって、これまで想像もしなかった新しい時間が、ゆっくりと始まっていくのを感じていた。