指先で君を覚えている

最初の手紙を渡した日、るみは少しだけ後悔していた。

「今日はありがとう」

たったそれだけの、短い点字の手紙。

もっと言いたいことはあったのに、
指がそこまで追いつかなかった。

図書館の隅の机に、それをそっと置く。
そらはまだ来ていない。

けれど不思議と、怖くはなかった。
むしろ、返事が来ることを信じている自分がいた。

夕方。

館内の空気が少しだけ変わった。

扉の開く音。
そして、迷いのない足音。

「……あった」

小さな声。

そらだった。

るみは顔を上げないふりをして、本を整理する手を止めなかった。

けれど心だけが、少しだけ早く動いていた。

そらは机に近づくと、すぐに気づいたように手を伸ばす。

点字の手紙。

指先が、その上をゆっくりなぞる。

読むというより、触れて確かめるように。

しばらくして、そらは小さく笑った。

「短いですね」

その言葉に、るみの胸が少しだけ跳ねる。

怒っているわけじゃない。
むしろ、優しい声だった。

そらは手紙をそっと閉じると、何も言わずに立ち上がった。

るみは思わず顔を上げる。

「……返事、ないんですか」

そう言ってしまってから、少しだけ後悔する。

そらは振り返らなかった。

けれど、数歩歩いたところで足を止めた。

そして、ゆっくりと息を吸う。

その瞬間。

歌が、落ちてきた。

言葉ではなく、音だった。

けれどそれはただの旋律じゃない。
指で触れた紙の温度が、そのまま音になったみたいだった。

やわらかくて、少し不器用で、
でも確かに“誰かに向かっている音”。

るみは動けなかった。

図書館の静けさの中で、
その歌だけが、確かにそこにあった。

歌い終わったあと、そらは小さく息を吐いた。

「返事です」

それだけ言って、また歩き出す。

るみは気づく。

この人は、言葉を持たないんじゃない。
言葉の“形”が違うだけだ。

文字の代わりに、声を選んでいる。

その背中を見ながら、るみは初めて思った。

――この人のことを、もっと知りたい。

そして同時に、もう一つ。

――ちゃんと、届く形で好きと言いたい。

その夜。

机の上の点字器の前で、るみはしばらく動けなかった。

指先が震えている。

何度も書き直しては、消す。

「ありがとう」じゃ足りない。
「また会いたい」でも違う。

心の中にだけある言葉が、形にならない。

ようやく一行だけ、打てた。

それは短くて、弱くて、でも確かに自分のものだった。

るみはそれを見つめて、少しだけ目を伏せる。

「……これでいいのかな」

答えは、まだない。

けれど明日、彼はまた来る気がしていた。