指先で君を覚えている

春の光は、やわらかかった。

カーテンの隙間から落ちる光が、部屋の床に小さな模様を作っている。

そらは、静かにその気配を感じていた。

もう以前のように、世界ははっきりしない。

ほとんどは“音”と“触れた記憶”だけでできていた。

それでも、怖くはなかった。

隣にいる気配が、いつもそこにあるから。



「そらくん」

るみの声。

少しだけ忙しそうな音。

でも、優しい。

「起きてる?」

そらは小さく笑う。

「起きてる」

そう返すと、少し間があって、柔らかい足音が近づく。

そして、別の小さな気配。



「パパ」

小さな声。

そらの体が、ほんの少しだけ固まる。

そのあと、ゆっくりと顔を向ける。

もちろん見えない。

でも、そこにいるのはわかる。



そらは、そっと手を伸ばす。

その手が、小さな指に触れる。

あたたかい。

少し不安そうで、でも確かにそこにある命。

「……おはよう」

そらは小さく言う。

その声に、子どもがくすっと笑う。

「パパの声、好き」

その言葉に、そらは一瞬だけ息を止める。

そして、静かに笑う。

「そう?」

「うん」



るみが隣に座る。

「朝ごはんできてるよ」

そらはうなずく。

でも、すぐには立たない。

そのまま子どもの手を握ったまま、少しだけ黙る。



「ねえ」

そらが言う。

「この子、ちゃんと見えてる?」

るみは一瞬だけ考えてから答える。

「うん」

「見えてるよ」

そらは少しだけ笑う。

「そっか」



子どもが、そらの手をぎゅっと握る。

「ねえ、パパ」

「なに?」

「パパは、どうやって世界見てるの?」

そらは少しだけ黙る。

そして、ゆっくりと言う。

「触ってる」

「声を聞いて、触って、覚えてる」

子どもは首をかしげる。

「変なの」

そらは笑う。

「変かな」

「うん」

でも、そのあと小さく続ける。

「でも、いいね」



その言葉に、そらは何も言えなかった。

ただ、ゆっくりと子どもの頭に触れる。

そこにあるのは、確かな“今”だった。



るみがそっと言う。

「そらくん」

「うん」

「私たち、ちゃんとここにいるね」

そらは少しだけ間を置いてから、うなずく。

「いるね」



窓の外で、風が揺れる。

見えなくても、世界は続いている。

触れなくても、愛はそこにある。



勿忘草は、小さな青い花。

忘れないためじゃなくて、
思い出し続けるために咲く花。



そらはそっと子どもの手を握り直す。

「覚えていこうな」

小さく、そう言った。