指先で君を覚えている

夜は、静かすぎるくらい静かだった。

あの部屋の空気は、もう何年も過ごしてきたはずなのに、今日は少しだけ違って感じられた。

そらは、机の上に小さな箱を置いていた。

中にあるものを、何度も指で確かめた。

丸み。重さ。冷たさ。

間違いなく、それは“言葉の代わり”だった。



そらは息を整えてから言う。

「るみ」

少しだけ間を置く。

「今日さ、ひとりで出かけた」

るみの指が、ほんの少し止まる。

そらは続ける。

「怖かったけど、行けた」

「ジュエリーショップだった」

沈黙が落ちる。

そらは箱に触れながら、静かに言う。

「ちゃんと、選んできた」

るみの心臓が、少しだけ速くなる。



そらは続ける。

「触ったらわかるんだよ」

「君の手、覚えてるから」

その言葉は、優しさというより確信だった。

「これ、渡したい」

一度だけ息を吸う。

そして、はっきりと言った。

「結婚しよう」



るみは、すぐに返事ができなかった。

その言葉の重さが、優しすぎて怖かった。

でも、逃げなかった。

そのまま、ゆっくりと口を開く。

「そらくん」

声が少し震える。

「私も……言わなきゃいけないことがある」

そらの指が止まる。



るみは、ゆっくりと続ける。

「2ヶ月、生理が来なくて」

そらの呼吸が、少しだけ変わる。

るみはそのまま言葉を落とす。

「病院、行ったの」

一度、間。

そして静かに。

「赤ちゃんがいた」



部屋の空気が、止まる。

そらは動かない。

何も見えないはずの目で、どこか遠くを見ているようだった。

長い沈黙のあと、そらが小さく言う。

「……ほんとに?」

るみはうなずく。

「うん」



そらは、しばらく何も言わなかった。

でも、やがてゆっくりと笑った。

それは、泣きそうな笑いだった。

「そっか」

「じゃあ……もっとちゃんとしなきゃだね」

るみの目から、涙が落ちる。

でも今回は、悲しさだけじゃなかった。



そらは箱を開ける。

指輪を取り出す。

そして、るみの手を探す。

るみはそっと手を差し出す。

そらの指が、その形を確かめる。

ゆっくりと、そこに指輪を通す。



そらは静かに言う。

「見えないけどさ」

「君の顔、ちゃんと覚えてるよ」

少し間を置いて続ける。

「笑ってる形も、泣いてる形も」



るみは涙を拭かずに笑う。

「私も覚えてる」

「そらくんの声の形」



そらはもう一度、手を握る。

強くもなく、弱くもなく。

ただ、離れない強さで。

「これからも、一緒にいよう」



そして数ヶ月後。

春の風の中で、小さな命の気配が二人の間に増えていく。

見えないものが増えても、
触れられるものは確かにあった。



勿忘草は、忘れないための花じゃない。

忘れそうになるたびに、思い出すための花だった。



「見えなくても、触れなくても、私はここにいる」

その言葉が、二人のすべてになった。