ネモフィラの中君は何度でも僕を忘れる

五月のゴールデンウィーク。

陽射しは暖かく、初夏の気配が少しずつ近づいている。

雪月は窓の外を眺めながら、ふと思い出したように口を開いた。

「この時期って、ネモフィラがきれいですよね。」

「そうだね。」

「インスタで、るるパークのネモフィラをよく見るんです。」

雪月は少し笑って続ける。

「青い花が一面に咲いていて、本当にきれいで……。」

少し間を置いて、小さく呟いた。

「でも、行ったことはないんですよね。」

縁は雪月の横顔を見つめる。

その言葉を聞いた瞬間、迷いはなかった。

「じゃあ。」

雪月が顔を上げる。

「このあと、行こう。」

「え……?」

「せっかくゴールデンウィークだし。天気もいいし。」

縁は穏やかに笑う。

「実際に見たほうが、写真よりもっときれいだよ。」

雪月の瞳がぱっと輝いた。

「本当ですか……?」

「うん。一緒に見に行こう。」

その一言だけで、雪月は花が咲くような笑顔を見せた。

「はい。」

その笑顔を見て、縁は思う。

──今日、この人を誘ってよかった。

まだ始まったばかりの一日。

二人の物語は、これから白と青の花が揺れる景色へと続いていく。

しばらくすると、焼きたてのフレンチトーストが二人の前に運ばれてきた。

こんがりと焼き色のついた厚切りのパンに、粉砂糖がふんわりとかかり、添えられたバターがゆっくりと溶けていく。

「お待たせしました。フレンチトーストです。」

店員が微笑み、テーブルに並べる。

「ありがとうございます。」

二人は顔を見合わせ、小さく笑った。

「いただきます。」

声が重なる。

雪月はナイフとフォークで一口大に切り分け、ゆっくりと口へ運んだ。

「……おいしい。」

思わずこぼれた言葉に、縁も笑みを浮かべる。

「そんなに?」

「はい。外は少しカリッとしてるのに、中はふわふわで……幸せです。」

その笑顔につられるように、縁も一口食べた。

「本当だ。これは人気なのも分かる。」

「藤井さんと同じものを食べられて、なんだか嬉しいです。」

雪月は照れくさそうに笑う。

縁は少し驚いた表情を見せたあと、優しく微笑んだ。

「俺も。」

その短い一言だけで、雪月の頬はほんのり赤く染まった。


ゆっくりと食事を終え、アイスコーヒーとアイスカフェラテを飲みながら、二人は穏やかな時間を過ごした。

窓の外では、五月の風が新緑を揺らしている。

会計を済ませて店を出ると、暖かな陽射しが二人を包んだ。

「じゃあ、行こうか。」

縁が車の鍵を軽く振る。

「はい。」

雪月は嬉しそうに頷いた。

助手席に乗り込み、シートベルトを締める。

エンジンが静かにかかり、車はゆっくりと走り出した。

目的地は、るるパーク。

窓の外には、青空の下で田園風景がどこまでも続いている。

「楽しみです。」

雪月が窓の外を眺めながら微笑む。

「写真よりきれいだといいな。」

「きっと、想像以上だよ。」

縁は前を見つめたまま、穏やかに答えた。

車内には、静かな音楽が流れている。

沈黙になっても気まずさはなく、それぞれが同じ時間を心地よく感じていた。

その日が、二人にとって忘れられない一日になることを、まだ誰も知らなかった。

会計を済ませ、二人はカフェをあとにした。

車に乗り込むと、縁はエンジンをかけ、るるパークへ向かってゆっくりと走り出す。

窓の外には、五月の柔らかな陽射しに照らされた新緑が広がっていた。

「藤井さん。」

雪月が優しく声をかける。

「ん?」

「お休みの日って、何をして過ごすことが多いんですか?」

「ドライブかな。あとはコーヒー飲みに行ったり。」

「やっぱりそうなんですね。」

雪月は嬉しそうに笑う。

「私、運転してる人のお話を聞くのが好きなんです。」

「そうなの?」

「はい。『今日はここに行った』とか、『この景色が好き』とか聞いてると、一緒にその場所へ行った気持ちになれるので。」

縁は小さく笑った。

「そんなふうに言われたのは初めてだ。」

雪月は目を合わせながら、楽しそうに話を続ける。

「好きな食べ物は何ですか?」

「嫌いなものってあります?」

「子どもの頃はどんな子だったんですか?」

一つ答えるたびに、「そうなんですね」と目を輝かせる。

まるで、縁という人をもっと知りたいと素直に伝えているようだった。

縁は多くを語る人ではない。

けれど、雪月の話を聞くことも、質問に答えることも、不思議と苦ではなかった。

むしろ、その時間が心地よかった。

「桜庭さんは?」

そう尋ねると、雪月は嬉しそうに笑う。

「聞いてくれるんですか?」

「うん。」

その一言だけで、雪月の笑顔はさらに柔らかくなった。

「じゃあ、いっぱいお話ししますね。」

それからの車内は、ほとんど雪月が話していた。

仕事で嬉しかったこと。

失敗して落ち込んだこと。

休日に好きなカフェへ行くこと。

花が好きなこと。

小さな幸せを見つけるのが好きなこと。

話している間も、信号で車が止まるたびに、雪月は縁のほうを向いてにこにこと笑う。

その笑顔を見ていると、縁まで自然と笑顔になっていた。

「私ばっかり話してますね。」

少し申し訳なさそうに言う雪月に、縁はゆっくり首を横へ振る。

「ううん。」

少し照れながら笑って続けた。

「俺、人の話を聞くの好きだから。」

その言葉に、雪月は安心したように微笑む。

「よかった。」

その一言だけで十分だった。

車内には穏やかな空気が流れ、二人の距離は、走る景色とともに少しずつ近づいていった。

車はしばらく走り、やがて広い敷地の入口へと入っていった。

「着いたね。」

縁がハンドルを切りながら言うと、雪月は窓の外を覗き込む。

「わぁ……人、たくさんいますね。」

駐車場の先には、家族連れや犬を連れた人たちが行き交い、ゴールデンウィークらしい賑わいが広がっていた。

春と初夏の間のような空気の中、木々はやわらかい緑を揺らし、足元には色とりどりのツツジが咲いている。

「きれい……。」

雪月は車を降りると、思わず小さく呟いた。

「じゃあ、行こうか。」

縁がそう言うと、雪月は嬉しそうに頷いた。

二人は並んで歩き出す。

園内は思っていた以上に広く、芝生の丘や木立の道を抜けながら、ネモフィラ畑を目指して進んでいく。

途中、犬を連れた家族が笑いながら通り過ぎ、小さな子どもが走り回る声が響いていた。

「こういう場所、久しぶりに来ました。」

雪月が少し眩しそうに空を見上げる。

「俺も。」

縁は短く答えながら、隣を歩く。

やがて視界が開けると、一面に広がる青い世界が現れた。

ネモフィラ畑。

風が吹くたびに、青い花が波のように揺れている。

「……すごい。」

雪月は足を止めたまま、息を呑むように呟いた。

縁も静かにその景色を見つめる。

「写真、撮りましょうか。」

雪月がカメラを取り出すと、二人は何枚も写真を撮った。

同じ景色を背景に、少し照れながら並ぶ横顔。

笑っている瞬間。

ふとした視線。

その一枚一枚が、今日という日を形にしていく。

歩きながらさらに奥へ進むと、雪月がふと立ち止まった。

「……あ。」

縁が振り返る。

視線の先には、青いネモフィラの海の中に、たった一輪だけ白いネモフィラが咲いていた。

風に揺れながら、静かにそこにいる。

「白い……。」

雪月はゆっくりと近づき、しゃがみ込むようにその花を見つめた。

「なんだか、少しだけ特別みたいですね。」

縁も隣にしゃがむ。

「ほんとだな。」

白の中の青ではなく、青の中の白。

その小さな存在が、不思議と二人の時間と重なって見えた。

雪月はそっとカメラを構える。

「撮っていいですか。」

「うん。」

シャッター音が、小さく風に溶けた。

その一輪の白いネモフィラは、まるでこの日のためにそこに咲いていたかのように、静かに揺れていた。

ネモフィラ畑を見終えたあと、二人はゆっくりと駐車場へ戻った。

「思ってたより、すごく歩きましたね……。」

雪月は少し息を整えながら笑う。

「確かに。結構距離あったな。」

縁も軽く肩を回しながら答えた。

車に乗り込むと、外の喧騒が少し遠のく。

シートベルトを締め、エンジンが静かにかかる。

「じゃあ、帰ろうか。」

「はい。」

最初は、雪月も窓の外を見ながら楽しそうに話していた。

「白いネモフィラ、ほんとにきれいでしたね。」
「写真、いっぱい撮っちゃいました。」


縁は短く相づちを打ちながら、ゆっくりと車を走らせる。

けれど、しばらくすると雪月の声が少しずつ小さくなる。

「藤井さんが運転してるのに、横で寝たらダメです……」

雪月はうとうとしながらも、なんとか言葉を絞り出した。

まぶたは重く、声も少しだけ柔らかくなっている。

縁は前を見たまま、小さく笑った。

「大丈夫だよ。気にしなくていい。」

「でも……」

言いかけたまま、雪月はまた目を閉じかける。

信号で車がゆっくり止まる。

縁はそこで初めて、横をちらりと見た。

「無理して起きてなくていい。」

少し間を置いて、優しく続ける。

「寝てていいよ。ちゃんと着くまで運転するから。」

雪月は小さく首を振る。

「……でも、失礼なので……」

その言葉は途中で途切れた。

まるで糸が切れたように、静かに意識がほどけていく。

縁はふっと息を吐いた。

「じゃあ、一つだけ。」

雪月がかすかに目を開ける。

「寝るときは、ちゃんとシートベルトしたままで。」

その言葉に、雪月は小さく頷いた。

「……はい。」

それだけ言うと、今度こそ安心したように目を閉じる。

静かな寝息が、車内に落ちていく。


縁は前を向き直しながら、ほんの少しだけアクセルを緩めた。

窓の外には、夕方の光がゆっくりと流れている。

隣で眠る彼女の横顔は、さっきまで見ていた笑顔よりも、どこか無防備で、守りたくなるほど静かだった。