ネモフィラの中君は何度でも僕を忘れる

休日の午前十時。

待ち合わせは、滝尾駅。

藤井縁は約束の十五分前に駅へ着き、駅舎の前に車を停めた。

「少し早かったかな。」

そう呟きながら改札口へ目を向ける。

小さな無人駅。

人影はまばらで、改札口のそばには、一人の女性が静かに立っていた。

白いブラウスに、淡いベージュのロングスカート。

肩まで伸びた髪が春風に揺れ、両手には小さな紙袋が大切そうに抱えられている。

時折スマートフォンで時間を確認しながら、誰かを待っているようだった。

――あの人だ。

縁は車を降り、ゆっくりと歩み寄る。

「あの……桜庭雪月さんですか?」

声をかけると、女性は少し驚いたように振り向き、ほっとしたように微笑んだ。

「はい。藤井縁さん……ですよね?」

「そうです。初めまして。」

「初めまして。」

お互いに軽く頭を下げる。

「ごめん、待たせちゃった?」

縁がそう言うと、雪月は優しく首を横に振った。

「いいえ。私も早く着いただけなので。」

その言葉に、縁は思わず笑う。

「実は俺も、早く来たつもりだったんだけど。」

二人は顔を見合わせ、小さく笑った。

雪月は抱えていた紙袋から一本の紅茶を取り出し、少し照れながら差し出す。

「これ……よかったら。」

「俺に?」

「紹介してくれた友達から、藤井さんは紅茶が好きだって聞いたので……。」

縁は驚きながら受け取り、嬉しそうに笑った。

「ありがとう。こんなことまで考えてくれてたんだ。」

「初めてお会いするので、少しでも喜んでもらえたらと思って。」

春のやわらかな風が二人の間を通り抜ける。

この日が、二人にとって忘れられない一日の始まりになることを、まだ誰も知らなかった。

「じゃあ、行こうか。」

縁がそう言うと、雪月は小さく頷いた。

車は滝尾駅を離れ、穏やかな街並みの中を走っていく。

最初は少し緊張していた車内も、好きな音楽や休日の過ごし方を話しているうちに、少しずつ笑顔が増えていった。

信号待ちで、縁が助手席を見る。

「紅茶、本当にありがとう。好きなの覚えてくれてて嬉しかった。」

雪月は照れたように笑う。

「喜んでもらえてよかったです。」

「最初からこんなに気遣いができる人、なかなかいないよ。」

その言葉に、雪月は少しだけ恥ずかしそうに窓の外へ視線を向けた。

しばらくして車は海沿いの道へ出る。

フロントガラスいっぱいに、青く穏やかな海が広がった。

「わぁ……。」

雪月は思わず声を漏らす。

「海、好きなの?」

縁が尋ねると、雪月はゆっくり頷いた。

「はい。海を見ていると、心が落ち着くんです。」

「俺も。だから今日、ここに連れて来たかった。」

車はやがて、かんたん公園の駐車場へゆっくりと入っていった。

春の陽射しを受けた海がきらきらと輝き、潮風がやさしく吹き抜ける。

縁はエンジンを切ると、雪月に微笑みかけた。

「ゆっくり歩こう。」

「はい。」

二人は並んで車を降り、潮の香りに包まれながら、海が見える遊歩道へと歩き出した。

まだ出会ったばかりなのに、不思議と隣を歩く時間が心地よかった。

二人は海の見えるベンチに腰を下ろした。

目の前には穏やかな海が広がり、春の陽射しを受けた水面がきらきらと輝いている。潮風が優しく吹き抜け、波の音だけが静かに響いていた。

「海、きれいですね。」

雪月が嬉しそうに微笑む。

「うん。ここ、好きなんだ。」

縁は海を眺めながら穏やかに答えた。

最初は少しぎこちなかった会話も、時間が経つにつれて自然と弾み始める。

仕事のこと。

休日の過ごし方。

好きな食べ物や映画、小さい頃の思い出。

話しているのはほとんど雪月だった。

彼女は終始にこにこと笑いながら、まっすぐ縁の目を見て話していた。

その瞳には、相手の話をちゃんと聞きたい、ちゃんと伝えたいという気持ちがあふれていた。

縁はそんな雪月の話を静かに聞く。

「そうなんだ。」

「それで?」

「楽しそうだね。」

多くを話す人ではない。

けれど、雪月が話す一つひとつの言葉を大切に受け止め、最後まで耳を傾けていた。

その姿が、雪月にはとても心地よかった。

ふいに強い風が吹く。

さらりと雪月の長い髪が頬へ流れ、顔を隠した。

それでも彼女は縁から目を逸らさない。

「それでね……」

笑いながら話を続け、髪が邪魔になるたびに指先で耳へとかけ直す。

その何気ない仕草さえ、縁の胸を静かに揺らした。

──こんなに真っすぐ目を見て話してくれる人がいるんだ。

気づけば、自分まで笑っていた。

雪月もまた、縁を見つめて思う。

──ちゃんと最後まで聞いてくれる。

話を遮らず、急かさず、優しく頷いてくれる。

その穏やかな眼差しが嬉しかった。

言葉よりも、縁の表情が「もっと話していいよ」と伝えてくれていた。

二人はまだ気づいていなかった。

この日、この場所で。

お互いが、お互いに恋をしてしまったことを。

風が吹くたび、髪を直しながら笑う雪月。

そんな彼女から、縁は一度も目を離せなかった。

そして雪月もまた、優しく話を聞く縁の瞳から、目を逸らすことができなかった。

その日、二人は外見ではなく、一生懸命に向き合う心に惹かれた。

それが、二人の恋の始まりだった。

しばらく海を眺めたあと、縁が立ち上がる。

「そろそろ、お昼にしようか。」

「はい。」

雪月は嬉しそうに頷く。

二人は海風に背中を押されながら、公園をあとにし、近くの小さなカフェへ向かった。

二人は海の見える公園をあとにし、近くのカフェへ入った。

店内には、焼きたてのパンとコーヒーの香りが広がっている。

窓際の席へ案内されると、雪月はメニューを開き、小さく目を輝かせた。

「フレンチトースト、おいしそうですね。」

縁もメニューを覗き込み、優しく笑う。

「じゃあ、俺もそれにしようかな。」

店員が水を運んでくると、縁が注文をする。

「フレンチトーストを二つ。それと、アイスコーヒーを一つ、アイスカフェラテを一つお願いします。」

「かしこまりました。」

店員が去ると、雪月は嬉しそうにメニューを閉じた。

「同じものを頼むのって、なんだか嬉しいですね。」

「確かに。」

縁は少し照れたように笑う。

窓の外では、新緑が風に揺れていた。