その夜。
珍しく、リッカは眠っていなかった。
窓辺に座り、月を見上げている。
「眠らないのか?」
「……昔を思い出していた」
「……」
「前に、葵乃姫のことを聞いただろう」
「ああ」
「聞いてくれるか?」
————
——
「賀茂祭を見てみたいの」
縁側で、葵乃姫がぽつりと呟く。
「祭など人の集まりだろう」
興味なさそうにリッカが答える。
「そうだけど」
姫は少し寂しそうに笑う。
「私は行ったことがないの」
その夜。
リッカは一人、賀茂祭の賑わいを見に行った。
「どうだった?」
姫が目を輝かせる。
「うるさかった」
「それだけ?」
「あと、人が多かった」
「それだけ?」
「……」
姫が頬を膨らませる。
「楽しそうだった」
「そう。ならよかった」
「見て、リッカ」
葵乃姫の手が伸びる。
「月が、綺麗ね」
「月はいつも綺麗だ」
「ふふ」
「ねぇ、リッカ」
「なんだ」
「これからも、そばにいてくれる?」
「……」
「私の代わりに色んなものを見て、それを私に教えてほしいの」
「聞くだけでいいのか」
「私は行けないもの」
「俺が連れて行ってやる」
「え」
「行きたいところはあるか?」
「……そうね。海が見たいわ」
「海?」
「ええ。どこまでも続いていると聞くわ」
「今から行くか?」
「今?無理よ」
葵乃姫がくすりと笑う。
「そんなことをしたら、皆に叱られてしまうわ。今度連れて行って」
「わかった」
それから、毎夜のように葵乃姫と話をした。
リッカは木の上で、葵乃姫は縁側で。
その日見たもの、あったこと。
姫はどの話も楽しそうに聞いていた。
気付けば、月を見るたびに姫の顔を思い出すようになっていた。
それは、珍しく葵乃姫の体調が良かった日だった。
縁側から庭へ降り立ち、リッカがいる木の下まで歩みを進める。
そうして、静かに言葉を落とした。
「リッカ。あなたは憑神なのでしょう。人と契約し、その契約が切れるまで、その家を守る妖」
リッカの視線が揺れる。
「誰に聞いた」
「……昼間、ある妖を探している、と術師が尋ねてきました」
葵乃姫が目を伏せる。
「銀色の憑神」
その名に、リッカの表情がわずかに険しくなった。
「あなたのことなのでしょう」
「……」
風が吹く。
木々が揺れる。
「怖くないのか」
ぽつりとリッカが言った。
「何がですか?」
「俺が」
「怖くないわ」
「……」
「だって、あなたは私を傷付けないでしょう?」
リッカが固まる。
今まで恐れられることはあった。
退治されそうになったこともあった。
でも信じられたことはなかった。
「……なぜそう思う」
葵乃姫が笑う。
「あなたは優しいもの」
その瞬間、リッカは初めて感じる感情に戸惑うように顔を背けた。
胸の辺りがじんわりと暖かい。
くすぐったいような、奇妙な感情だった。
「リッカ」
「なんだ」
葵乃姫は少しだけ迷うように目を伏せる。
そして。
「私と契約してくれない?」



