月影の彼方〜千年の約束〜



「晴人、リッカの影が薄くなってる」
「え?」

それは、晃と二人で晴人の部屋で宿題をしていた時だった。

言おうかどうしようか迷っていたのだろう、言いづらそうに晃がそう言った。

「どういうことだ?」

「……気っていうのかな。弱まってる」

「……どこか悪いのか?」

「そういうんじゃないんだ。消えかかってる、ていうか」

晴人の顔色が変わる。

「っ、リッカ!」

返事がない。

「……リッカ?」

いつも呼べばすぐに姿を現したのに。

むしろ、呼ばなくたっていつもそばにいたのに。

「……千年」

ぽつり、と晃が言葉を落とす。

「え?」

「千年だぞ」

晃は静かに続ける。

「リッカにはきっと、月島を守り続ける理由があったんだと思う」

「理由って?」

「約束とか、誓いとか。そういうの」

「……」

「それが、あいつがここにいる理由だったんじゃないかって」

「約束……誓い」


——今の俺は晴人を守るためにいる

——守ると約束した


「あ、おい!晴人!?」
突然立ち上がった晴人に驚いたように晃が顔を上げる。

「俺、行かなきゃ!」

「行くってどこへ!」


「……ここは」
晴人の後を追ってきた晃が息を呑む。

月島家。
その屋敷の庭。

今は夏も終わり秋だというのに、桜の木には桜が満開に咲いていた。

その下に、リッカはいた。

「……リッカ?」
恐る恐る晴人が近づく。

リッカの耳がぴくり、と動いた。

「……晴人?」

さぁ、と風が吹き抜ける。

「……どうした、晴人。泣きそうな顔をしているぞ。また誰かにいじめられたのか」

気だるそうにうっすら目を開けてそう言葉を落とすリッカは、とても眠たそうで。

「……リッカ」
もう一度名前を呼ぶ。

その時だった。

ふわっと香る花の香り。
目の前に、着物を着た黒髪の女性が立っていた。

「……葵乃」
リッカの目が大きくなる。

信じられないものを見るように、その瞳が揺れた。


「——リッカ」

葵乃姫がそっと手を差し出す。

リッカの視線が揺れた。


「……忘れないで、か」

リッカが静かに目を閉じる。

千年前。

葵乃は確かにそう言った。

心を代価として捧げる、と。

あの時のリッカは理解していなかった。

『私はお前を愛す。だからお前も、この身が果てるまで我を愛せ』

葵乃が捧げた心。

それは命ではなく、忘れないでほしいという願いだった。

そしてその願いは契約となり。

千年の時を超えて、今、確かに果たされた。


「——リッカ」

再び聞こえた声に、リッカはゆっくりと目を開ける。

葵乃が、そこにいた。

あの日と変わらぬ姿で。

「気が遠くなるほど長い時間、ずっと守っていてくれたのですね」

その声は震えていた。

「私との約束を、忘れることなく……」

葵乃が微笑む。

けれどその瞳には涙が浮かんでいた。

「もう、十分です」

「あなたは約束を守ってくれました」

そっと手を差し出す。

「だから、もう休みましょう」


リッカの視線が揺れる。

「リッカ!」
思わず叫んでいた。

喉が痛い。

「……晴人」
晃がそっと晴人の肩に手を置いた。


——晴人、これ食うか?


無邪気な声が蘇る。


「……俺は、お前がいたから。お前がいてくれたから……今まで」

生きてこれた。

最後の方はもう嗚咽で上手く言葉に出来なかった。

「……晴、人。泣いている……のか。晴人を……泣かせるやつは……俺が……」

「っ」

リッカが立ち上がろうとする。

だけどその影が揺れる。
そこにいるのに。
そこにいないみたいに。

「——リッカ」
葵乃姫がそっと手を差し出す。


ああ、もう一緒にはいられないんだ。

そう悟った。


「ダメだ……行くな、リッカ」

晴人が手を伸ばす。

けれど、その指先は届かない。

「泣くな」

リッカが苦笑する。

「リッカ……」

「そんな顔をするな」

影が薄くなる。

銀色の髪が風に溶けるように揺れた。

晴人の瞳から涙が零れる。

「俺、まだ……ちゃんとありがとうも言えてない」

「……言ってくれただろう」

「……え」

「何度も」

リッカは少しだけ目を細めた。

「だから十分だ」

それは初めて会った頃より、ずっと穏やかな顔だった。

「礼を言うのは俺の方だ」

そして。

「最後に守れたのがお前でよかった」

リッカがゆっくり目を閉じる。

「ありがとう、晴人」


リッカの腕に嵌められた銀色の腕輪が割れる。

その破片が晴人の足元に落ちた。

それを拾い上げて顔を上げたとき、もうリッカの姿はどこにもなかった。


「……リッカ」

名前を呼ぶ。

でも、もう返事はなかった。

桜吹雪だけが舞う。

そこにいたはずなのに。

ずっと隣にいたはずなのに。

どこを見ても、もうリッカはいなかった。

「……っ」

握り締めた銀色の破片が手に食い込む。

苦しい。

胸の奥が痛い。

口を開いても声にならない。

ただ涙だけが溢れた。


「晴人」

晃の声が聞こえる。

けれど返事はできなかった。

ただ桜の木を見上げる。

千年の約束が終わった場所を。




あの日拾った銀色の破片を、晴人は今でも持っている。

小さなそれは、月明かりの下で時折淡く光ることがあった。


風が吹く。

その瞬間。


——『晴人』


ふいに、懐かしい声が聞こえた気がして、晴人は空を見上げた。

夜空には、静かな月が浮かんでいる。

晴人は小さく笑った。

「……元気でやってるよ、リッカ」


月影は、もうどこにもいない。

それでも確かに、あの日々は、晴人の中に残り続けていた。