海から帰った日の夜だった。
施設の職員に呼ばれ、事務室の扉をノックする。
「どうぞ」
中から聞こえた声に扉を開けると、そこにいたのは見知らぬ初老の夫婦だった。
「晴人君?」
「大きくなったわねぇ」
まるで昔から知っているかのような口ぶりに、晴人は戸惑う。
自分には覚えがなかった。
「覚えていないわよね。一応、親戚になるんだけど」
「仕方ないさ。哲平さんたちが亡くなった時、君はまだ小さかったからな」
哲平。
父の名前に、晴人の眉が僅かに動く。
職員が口を開いた。
「月島くん。こちらの方たちは、君のご実家を管理してくださっている方だよ」
「実家を……?」
思わず聞き返した。
「……晴人。あいつらの話は本当だ」
隣でリッカが小さく呟く。
「あの時はごめんなさいね」
女性が申し訳なさそうに言った。
「本当は私たちがあなたを引き取りたかったの。でも、自分たちの生活で精一杯だったのよ」
「おい」
男性が困ったように声をかける。
女性は少しだけ俯いた。
「それでもね、せめて家だけは残しておこうって決めたの」
「家……」
「ええ。月島の家は今も残っているわ」
晴人は言葉を失った。
あの家はもう、とっくになくなったものだと思っていた。
「今は私たちが管理している」
男性が続ける。
「掃除もしているし、庭の手入れもしている」
「君がいつ戻ってきてもいいようにな」
「俺が……戻る?」
「家も土地も、元々は君のお父さんたちのものだ」
話が大きすぎて、すぐには理解できなかった。
「だから一度、ちゃんと話をしておきたくてね」
女性が柔らかく笑う。
「もちろん、今すぐ何かを決めろって話じゃないの」
「ただ――」
夫婦は顔を見合わせた。
「いつか君が大人になった時のためにも、知っておいてほしかったんだ」
「晴人君が嫌じゃなければ、一度家を見に来ない?」
晴人は息を呑む。
「君の家だから」
夫婦が帰った後。
部屋に戻った晴人は、ぼぉっと外を見ていた。
その背中にリッカが声をかける。
「晴人」
「……リッカは、知っていたのか?」
「……ああ」
「なんで言ってくれなかったんだ。家が残ってるって」
「……お前はまだ子供だったから」
「でも、そうだよな。お前、月島家を守るのが契約だったもんな。残ってても不思議じゃないよな」
「……すまない」
晴人ははっとしたように顔を上げた。
「ごめん!違うんだ、リッカを責めてるわけじゃなくて。俺もちょっと混乱してて。今更家が残ってるなんて言われても」
リッカは、ふ、と視線を落とした。
「……今の俺は、晴人を守るためにここにいる」
「うん」
「今日はもう寝ろ。海で疲れただろ」
その日はそれ以上家のことについてはどちらも触れることはなかった。
次の日。
「月島の家に行ってみようと思う」
晴人の言葉に、リッカは目を開いた。
「行くのか」
「リッカがずっと守ってきた家だろ。そして父さんの家、俺の家でもあるなら、一度ちゃんと見ておきたいんだ」
「場所は覚えているか?」
「覚えてないよ。リッカ、連れてって」
リッカはそっと目を閉じた。
「ああ。もちろんだ」
その声はどこか嬉しそうだった。
数日後。
「……ここか」
晃の家も凄かったけど。
ここも、負けずとも劣らず、大きな屋敷だった。
「俺、こんな家に住んでたのか?」
リッカが隣で笑った。
「覚えてないか」
「あ、でも」
晴人はふ、とある場所に目をやった。
門を入ってすぐの場所。
「ここ。ここで父さんが車を洗ってたのは覚えてる」
「……ああ。哲平は車好きだったからな」
「あと、あそこ」
晴人の指差した先。
「あの花壇。母さんがよく花に水をあげてた」
「由紀は花を育てるのが好きだった」
リッカの声は優しかった。
「お前はよく哲平が車を洗う側でちょろちょろと歩き回って由紀に怒られていたな」
覚えていないはずなのに、その光景が浮かんでくる気がして、少し泣きそうになった。
庭を進む。
立派な建物が見えてきた。
そしてその建物の側。
庭の中心に、一際大きな桜の木が立っていた。
「……あれは」
本当に大きな木だった。
リッカの視線が桜の木へ向く。
一瞬だけ。
ひどく懐かしそうな顔をした。
太い幹に、そっと触れる。
リッカの瞳が揺れた。
「……この木はずっとここにある」
「……ずっと」
その時、風が吹いた。
——どうか、忘れないで
誰かの声が、聞こえた気がした。
「ここはお前の家だ」
リッカが言う。
「……俺の、家」
「そうだ」
「こんな大きな家、俺一人じゃ住めないよ」
リッカが笑う。
「お前もいつか誰かと結婚して、家族ができる。その家族と住むんだ」
晴人の瞳が揺れる。
「リッカも、一緒だろ?」
「……ああ。そうだな」
その時、リッカの気配が少し揺れたことに、晴人は気付かなかった。



