月影の彼方〜千年の約束〜



「私と契約してくれない?」

葵乃姫の言葉に、リッカは目を見開いた。

しばらくの沈黙の後。

リッカは静かに首を振る。

「断る」

葵乃姫が目を瞬く。

「……なぜ?」

「お前は人だ」

リッカは目を伏せた。

「人は老い、死ぬ」

「ええ」

葵乃姫は静かに頷く。

「契約しても、その事実は変わらん」

「……」

「俺はもう、人とは契約せんと決めている」

葵乃姫は少し考えるように目を伏せた。

「置いていかれるのが怖いの?」

リッカの眉が僅かに動く。

「……違う」

けれど。

それ以上の言葉は続かなかった。

葵乃姫は小さく笑う。

「そう」

そして空を見上げた。

「私は、この家を守りたいの」

「なぜだ」

「父上も母上も、この家も好きだから」

葵乃姫が微笑む。

「私は幼い頃から病弱で、まだ何も返せていないわ」

「……」

「私は月島の姫だもの」

「せめて、この家の力になりたいの」

リッカは何も答えない。

答えられなかった。
その願いが、あまりにも葵乃姫らしかったから。

「でも」

葵乃姫が続ける。

「それだけじゃないわ」

リッカの視線が向く。

葵乃姫はまっすぐにリッカの目を見つめた。

「あなたを一人にしたくない」

「何を言っている」

「初めてあなたに会った時、とても冷たい目をしていたわ」

「……」

「でも私には、とても寂しそうに見えた」

リッカの表情が僅かに強張る。

「皆、あなたを妖としか見てこなかったのでしょう」

「守り憑きとして」

「名前を呼ぶこともなく」

「ただ、力として」

「……くだらん」

リッカが顔を顰める。

「私は本気よ」

葵乃姫は笑った。

「私と契約を結べば、あなたは月島の憑神になる」

「私がいなくなった後も」

「父上が」

「母上が」

「いつか生まれてくる誰かが」

「あなたの名を呼ぶわ」

リッカの瞳が揺れる。

「だから」

葵乃姫はそっと言った。

「月島を守って」

「私の代わりに」

「……もう、寝ろ」

そう言い残し、リッカは月明かりの中へ姿を消した。


それからしばらくして。

葵乃姫の体調は急激に悪化した。

夜に縁側へ出ることも少なくなった。

リッカは変わらず屋敷を訪れていたが、以前のように言葉を交わすことは減っていた。

ただ。

部屋の外から気配を感じることだけはあった。


ある夜。

「……リッカ?」

障子の向こうに気配を感じ、葵乃姫が小さく呼ぶ。

返事はない。

だけど。

障子の向こうから、そっと薬草の束が差し入れられた。

思わず笑みが零れる。

「ありがとう」

すると少し間を置いて。

「死ぬな」

小さな声が返ってきた。


また別の日。

「海、見てみたかったわ」

布団の上で葵乃姫がぽつりと呟く。

「……」

「どこまでも続いているのでしょう?」

「……ああ」

「綺麗なのかしら」

「綺麗だ」

葵乃姫は嬉しそうに笑った。

「見たかったな」

その言葉に。

リッカの拳がぎゅっと握られる。


その夜。

月明かりの下。

リッカは一人で空を見上げていた。

守りたいと思った。

初めてだった。

誰かに生きていてほしいと願ったのは。

人は嫌いだった。

何度も裏切られた。

何度も恐れられた。

それでも。

葵乃姫だけは違った。


翌夜。

葵乃姫が目を開くと、そこにリッカが立っていた。

「リッカ……?」

リッカはしばらく黙っていた。

そして。

「以前の話だ」

葵乃姫が目を瞬く。

「……?」

「契約する」

風が止まった。

葵乃姫の目が大きく見開かれる。

「本当に?」

「ああ」

「どうして……」

リッカは答えない。

答えられなかった。

お前に生きていてほしいからだ、など。

口にできるはずもなかった。


「契約には代価が必要だ」

リッカが静かに言う。

「その者が最も大切にしているものを受け取る」

葵乃姫は少し考えた。

そして。

優しく笑った。

「なら」

月明かりの下。

まっすぐリッカを見上げる。

「私の心をあげるわ」

「心?」

「ええ」

葵乃姫は頷いた。

「私が一番大切にしているもの」

そして。

少し照れたように笑う。

「だから」

リッカの手を取る。

「私がいなくなっても」

「私を忘れないで」


月が最も高く昇った夜。

縁側。

葵乃姫とリッカが向かい合う。

「お前は俺に名をくれた」

リッカ。

その名をくれたのは葵乃姫だった。

「だから今度は俺がお前を呼ぶ」

そっと手を差し出す。

「葵乃」

姫が目を見開く。

今まで誰も呼ばなかった名。

姫ではなく、一人の人として。


リッカが葵乃の額に触れる。

すると月明かりのような銀色の光が溢れた。

風が吹く。

木々が揺れる。

遠くで虫が鳴く。


「我が名は月下の妖リッカ」

「我が魂をもって汝を守護する」


葵乃も手を重ねる。


「我が名は葵乃」

「我が心を代価として捧ぐ」

「どうか忘れないで」


その言葉に。

リッカはそっと目を閉じた。


「忘れぬ」

風が止まる。

「お前が死しても」

月明かりが二人を照らす。

「百年の後も」

銀色の光が強くなる。

「千年の後も」

そして。

リッカは初めて、自らに誓った。

「俺はお前を忘れぬ」


その瞬間。

二人の足元に月の紋様が浮かび上がる。

風が渦を巻く。

銀色の光が二人を包んだ。

「契約は成った」


しばらくして。

葵乃が小さく笑う。

「ねぇ、リッカ」

「なんだ」

「もう一度、呼んで?」

リッカは顔を背けた。


「……葵乃」

その声に。

葵乃は嬉しそうに目を細めた。

まるで子供のように。



月だけが、変わらずそこにあった。